人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

どっちを選んでも批判は受ける

オバマ大統領の日常を紹介したドキュメンタリーだったか、別の大統領を扱った映画だったか、もはや記憶が定かでないのだが、その映像を観ていて感じたことがある。

リーダーというのは、どういう決断をしても批判を受ける立場で、その上でどちらかに決める役割であり、だからこそ尊いんだなと。

 

メリット・デメリットを整理して、概ねどれがいいか検討がついているような選択肢というのは、そもそも大統領のところまで上がってこないんだよね。

その程度の話は優秀なスタッフたちで決めてしまう。

 

どちらを選んでもメリットはあるが、それぞれなんらかの犠牲が出る、それもそれなりの規模で。

どっちを選んでも批判は避けられないんですが、どうしましょう大統領、という感じ。

 

こりゃ大変だと思うが、リーダー的な職務にある人って、大なり小なりこういうものだろう。

選択には批判はつきものだが、その批判を覚悟で選択することがリーダーたるものの職責。

 

この辺がわかってないと務まらないので、選択から逃げてばかりだとリーダー失格となる。

「どちらにせよ批判は受ける、そういうものだ」と割り切って前に進めるか。

 

この辺は慣れの問題もあるだろうけどね。

やれているかなぁ?

 

自戒を込めて。

まぁ、ご参考ということで。

お金は使う方が難しい

無借金経営を誇りに思っていらっしゃる経営者には何度かお会いしたことがある。

会社を潰さないという意味ではもちろん立派だ。

 

しかし新卒で銀行に入社したからというわけではないが、企業経営で無借金が完全なる善かというと、ちょっと違うと思う。

事業の内容にもよるのではあるが、企業を成長させるためには、大きくお金を突っ込まねばならない。

 

例えば、本当に売れる商材が確保できたとして、手許資金の1億円ではなく銀行からも借り入れを起こし、5倍10倍の資金で勝負をかける、というのが商売(レバレッジを掛けるとも言う)。

銀行から借金をしなければ潰れるリスクは無くなるが、商売としても5分の1、10分の1で留まってしまうということだ。

 

ちょっと批判的な言い方になるが、「無借金です」ということは、レバレッジを掛けて勝負をしてこなかった、するチャンスがなかった、ということでもある。

もちろんビジネスにはリスクがつきものなので、上手くいくことばかりではない。

 

その不確実な前提で、期待値以上のリターンが見込めるチャンスを探し、果敢にお金を突っ込むというのは、とても難しいこと。

なので、ある程度ビジネスが確立している会社であれば、ひたすら溜め込んで無借金や現預金残高を誇る方が簡単。

 

そうやって溜め込んでいる会社は日本にたくさんあるのだけれど、裏を返すと「お金を使いあぐねている」とも言える。

お世話になったベンチャーの創業社長が、「管理と経営は違う」とおっしゃっていたけれども、お金の「入」と「出」を「管理」して預金残高を増やすだけではなく、「そのお金でどうするんでしたっけ?」を考え、果敢に突っ込んでいくことこそ「経営」なんだと思っている。

 

まぁ、ご参考ということで。

誰が言ったか

「誰が言ったか、より、何を言ったか」というのは、組織論の中でよく耳にする話。

正しい意見が通るフラットな組織を作りたい、という意思の現れなんだろうと思う。

 

でも、そういう意思が現れるということは、実際にはそうじゃない、ということなんだろう。

しかし、組織や社会には必ず権限の偏りがあって、それは必要だからそうなっているのだけれど、権限や権威が集中する人間の発言が重く受け止められるのは、これまた必然。

 

こんな本を読む。

 

ずいぶん昔にパッと買った本を、なんとなく引っ張り出してきた。

要約すると、「誰が言ったか」を踏まえて自分自身の「メディア力」を高めること、そして自分自身が心から思うことに発言を寄せていく、といった感じ。

 

「メディア力」を基礎付ける権威や権力は、努力で手にすることができるかもしれない。

しかし、人の心を動かすために、自身が心から思うことを発言するというのは、ある意味、生き様を規定する話だと思う。

 

日々真剣に生きて、考え抜いているからこそ、言葉に重みが出る。

そこまで考えると「誰が言ったか」という言葉にも違うニュアンスが感じられてくる。

 

「あの人は確かな考え方の人だから」「軽々しくいい加減なことを言わない人だから」「真剣に我々のことを考えてくれる人だから」…。

そういう生き様を想定すれば、「誰が言ったか」はとても大事なポイントになるだろう。

 

自戒自戒!

まぁ、ご参考ということで。

現象面に振り回されない

こんな本を読む。

 

本書はシステム思考といわれる方法論を解説するもので、「そりゃなんだ」というと、現象を構造で捉えようとするもの、といえば良いだろうか。

何か問題が起きた時に、単純に解決策を求めに行くのではなく、現象に連なる因果関係を紐解き、全体の構造を明らかにして、本質的な解決を目指すというもの。

 

本書の解説自体はそんなに複雑ではないので、すぐに読めるし、裏を返せば凄い知見が得られるほどではない。

へー、と思ったのは、因果のループを書くのは割と日本人はできるらしいということ。

 

なんでしょう、輪廻転生の文化圏だからでしょうか…。

それはともかく。

 

以前、人材紹介会社にいた際に、当時のベテランコンサルタントがまとめた「優秀な人材とは」といった類の資料を読み込んだことを思い出した。

その中の一つに「物事を現象面で語らない」というのがあったと思う。

 

仕事上の何かの成果・取り組みがあったとして、それがどうだったかだけではなく、会社にとって、所属する業界にとってどんな意味があるのか、それによってどんな変化、未来が予想されるのかを語れること、だったと記憶している。

それをちゃんと語れているかを見るエージェントも大変だなと思ったけれども、なるほど確かに、よく知る優秀な人材というのは皆そうだなと感心したものである。

 

小生の師匠は「現象論・構造論・本質論」と語っていたけれども、そこまで難しく考えられなくても、今の会話は現象の話なのか、構造の話なのか、本質の話なのか、それを意識するだけでも全然違って見えてくると思っている。

まぁ、ご参考ということで。

 

友人を選ぶ

ダンバー数って言うんだね。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E6%95%B0

 

人類学者のダンバーさんが提唱した数だからダンバー数なんだが。

「人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限」と定義され、150人というのが知られているが、100〜250の間というあたりらしい。

 

要するに親しさを維持できる人間関係の数ということだ。

血族・姻族がいて、職場の仲間がいて、趣味の仲間、学生時代からの友人…と数えていけば、150人なんてすぐに埋まる、という人も多いと思う。

 

血族・姻族・職場の仲間については、あまり選択の余地がないかもしれないから、残りの枠はそれ以外となるわけだが、その少ない枠をどんな人たちで埋めるのか。

できれば、自分の好きな人、お付き合いを続けることで自分自身が成長できて、相手にもポジティブなフィードバックができる人、そんな人たちで埋めていきたい。

 

なんとなく目の前にいる人、なんとなく関係が続いている人で150人を埋めるのはもったいない。

自分勝手な論理かもしれないが、人間関係というのは人生そのものだったりもするから、良い友人を選ぶべき。

 

「自分に意地悪をした人間が謝ってきたとしても、別に友達になる必要はない。そいつは許すだけでいいから、150人のリストは大事な友達で埋めておけ。」なんていうラジカルなことを娘にアドバイスする悪い父親なのであった。

まぁ、ご参考ということで。

 

努力は足りているか

こんな本を読む。

 

Kindle日替りセールで目にして、レビューが高かったので購入する。

ロードバイクは昔持っていたことがあるし、機会があればまたとも思っていたし、ロードレースもちょっとは見たりするし。

 

それだけでなく、トレーニング理論全般に興味はあるので、じっくり拝見。

ヨーロッパで活躍した日本人選手によるトレーニングの解説や、プロの選手達のトピックスが散りばめられた本で、大変興味深い。

 

しかし、このトレーニングはキツい。

本当にキツいと思った。

 

小生自身、一般人としては運動している方だと思うが、本当にレベルを上げるためのトレーニングはここまで厳しいのかと、ちょっと冷や汗である。

例えば、トレーニングは坂道のように上がっていくのではなく、階段状なのだと説明している。

 

レースに出れば、その場の雰囲気や他の選手のペースに釣られて、いつも以上の力が出ることがある(それは本当にそう思う)。

それが階段の縦方向の動き。

 

そしてその時の限界を超えたレベルを維持するために、レース後に普段のトレーニングとして続けていく。

これが階段の横方向の動きで、このサイクルを繰り返してレベルを上げていくのだ。

 

もちろんレースに出るために一生懸命練習をするんだけれど、限界を超えるレベルを当たり前に狙っていくというトレーニングは、本当に辛い。

小生も普段走っているけど、路上に座り込むほど追い込んだことなんて、2年くらい前に1回あったのと、昨年初マラソンにチャレンジしてレース後に足が攣りまくった時くらい。

 

でもそんなレベルを毎週のように繰り広げて、「世界で戦える」境地に到達するんだなぁ。

ちょっとロードバイク再開しようかなと思っていたが、始めるとちゃんとやりたくなる性分なので、こんな厳しい世界を垣間見ると、「無理っす」ということで、再開が遠くなったと感じる(笑)。

 

それにしても、これは師匠の教えと同じだなぁと思ったのは、フォームが固まらない初級・中級のうちは、強度の高い練習をしてはいけない、ということ。

正しいフォームが固っていないと、ペースアップはフォームを乱すし、そうなると練習の意味がなくなってしまうからね。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

 

 

おバカな青春時代はありましたか

当方、中高6年間男子校で育ったので、おバカなエピソードはたくさんあった。

時を経てだいぶん風化したり忘れたりしてしまったが、そのためにもう一回男子校に行ってもいいと思うくらい。

 

書けないような話が多いので(苦笑)詳細は割愛するが、くだらないことでも確かに自分の中の何かを形作ってくれている。

笑いのセンスなのか、人間関係の作り方なのか、集団の中での自分のポジショニングなのか、社会との関わり方なのか、わからないけれど。

 

この本を読んで、そんな昔を思い出す。

ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)

ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)

 

 

著者が20代〜30代前半にかけて暮らしていた三畳一間のアパートでのドタバタを描いたもの。

著者もそうだと言って良いが、奇人変人だらけ、トンデモエピソードに笑わされる。

 

ひとつだけでも一生飲み会のネタには事欠かないレベルなのに、いくらでも出てくるのだから人生は不公平に出来ている(違。

しかしこの本に「上手いなぁ」と唸らされてしまったのは、散々おバカなエピソードが繰り広げられる中にも、人生や青春の苦みがありつつ、最後にこのアパートを出るに至った経緯の、柔らかな喜びに包まれるという読後感。

 

世界中でおバカなことを繰り広げる著者だが、その原点を垣間見ることが出来るだけでなく、作家としての奥行きの深さ、実力がわかる一冊だった。

おバカな青春は人生を豊かにするが、それを「作品」として纏め上げるには努力と才能がいるってことだね。

 

まぁ、ご参考ということで。