人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

人体の不思議

二年くらい前に、スマホと連動する体組成計を買ったのである。

メーカーは中国の名も知らぬところだが、安くて便利だし、多分測定値も正確なんだろうと思っている。

 

色々数値は出るのだが、もっぱら体重・体脂肪率を気にしていて、二年前に購入した時から、もう少しだけ体重・体脂肪率を減らしたいと思って現在に至る。

もちろん思うだけではなくて、色々食事を変えてみたり、トレーニングを変えてみたりと試行錯誤を繰り返しているが、残念ながら数値は殆ど変わらない(苦笑)。

 

もともと太っていたわけではないし、四十代という肉体的には下り坂だから、難しいのは確かなのだが、体重で0.5-6キロ、体脂肪率でも0.5-6%だけ減っただけ。

たがしかし、身体というのは不思議だなと思うのは、ランニングのパフォーマンスとか、ケトルベルのパフォーマンスとか、ボクシングとか懸垂の回数とか、着実にレベルは上がっていることなんだよね。

 

最大酸素摂取量が少し上がっているのだが、多分それは体組成には現れないわけで。

それ以外にも各運動のテクニカルな部分も、もちろん体組成には現れない。

 

体重・体脂肪率というスペックで語ることの限界がそこにあるわけなのだが、目に見える指標、数値は、それを達成することがすぐに目的になる怖さがある。

極端な話、ボクシングが上手くなれば体重も体脂肪率もそこまでこだわっていなかったのに、気がついたらフェザー級の体重と体脂肪率を目指しているだけ、みたいな…。

 

裏を返すと、何を目指しているのかという、そのビジョンをしっかり持っていないと、わかりやすく目に見える指標に支配されてしまう。

人生でも、経営でも同じなんじゃないかな。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

薄くて不味いコーヒーには歴史がある

食品と歴史続きでこんな本を読む。

 

コーヒーは好きな方だと思う。

スタバの2号店が御茶ノ水にできた時は三日と開けずに通っていたような気がする。

 

当時は珍しかったエスプレッソをダブルでグッと引っ掛けていくことが多かったし、大学がその周辺だから昔ながらの喫茶店もたくさんあったし。

そんなこんなで非常に評価の高かった本書を読む。

 

コーヒーの起源はアフリカ。

いつから飲まれるようになったかはよくわかっていない。

 

しかし世界中に伝わってからは、非常に強い需要を抱えた貿易産品として、人間の歴史に複雑に絡んでいく。

ヨーロッパは水が悪いので、近世のヨーロッパ人は朝から酒を飲んでいたのが、コーヒーを飲むようになって一気に文明が発展したのだ、なんていう説もある(本書ではそこまで言及していない)。

 

アメリカのコーヒーは薄くて不味いというのは彼の地のテレビドラマや映画で見たことがあるが、それにも理由があった。

思わず「へー」ではあるのだが、そこには人間の複雑な思惑と経緯があって、そのドラマが面白い。

 

「中華料理の文化史」はその辺があまり感じられなかったかなぁと思ったり。

くだらない、バカバカしい、こんなのダメだろう、というものにも、一応成り立ちと存在してきた理由があって、そこを押さえた上で見極めないと、意外と怪我をするのだよね。

 

アメリカの薄くて不味いコーヒーには、もはや存在理由はなさそうだけれども。

まぁ、ご参考ということで。

 

親知らずを抜きます

最近奥歯が沁みるようになってきたので、近所の歯医者に通うようになった。

歯医者に通うのは十年ぶりくらい。

 

前回は銀座で昔からやっているお婆さん先生で、歯石のクリーニングを手作業でゴリゴリやってもらったのだが、設備も古く中学生時代に通った実家近隣の歯科と変わらない雰囲気だった。

今通っている歯科医は二年くらい前に出来た新しいところ。

 

なんかこう、色々新しい体験の連続である。

おぉ、カメラはライカなんだなとか、ぐるぐる回るレントゲンとか、撮った画像は椅子の前のモニターに映されるんだなとか、なるほど先生一人に歯科衛生士二、三名のシフトなんだなとか、システマティックな割に会計は現金なんだなとか、なんでアクセサリーを売っているんだ?とか、興味は尽きない。

 

アクセサリーの件は、カミさんの同級生が歯科技工士で、義歯の余り材料でアクセサリーを作って売っていたという話を聞いたのだが、果たしてそれなのかは謎である。

しばらくご無沙汰していると、色々と進化していて感心するのだが、一方で歯を削るあの機械と高音質・高周波は全然変わらない。

 

変わるところと変わらないところと、色々考えさせられる。

歯を削るあの嫌な感じが変わらなくても、それ以外が快適になっているからストレスはだいぶん軽減されており、最も厄介な問題が解決できなくても、前に進める方法はいくらでもあるんだなと勝手に普遍化してみたり。

 

ところで、歯が沁みるのはやっぱり虫歯で、二箇所ほど治療をした。

小生、親知らずが全部健在で、「いますぐ抜かなきゃいけないわけでもないが、生やしておいても虫歯の原因になったり良いことはない」「下の歯は多分腫れも痛みもそれなりに発生すると思うが、どうする?」という話になり、じゃあまぁ全部行っちゃってください、ということで、問題のある三本を抜く、ということになった。

 

先日土曜日に難易度の低い上の歯を一本抜く。

大して痛くはないが、変な感じである。

 

今週は経過観察で、来週から二本目に入るのかなぁと思う。

さて、どうなることやら。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

伝統とは何か

こんな本を読む。

 

外国文化、歴史繋がりで積読に手をつける。

古代から近代まで大きな括りで中華料理の変遷を解説した本。

 

所々に著者個人の体験や感覚が散りばめられ、親しみやすさを感じるが、基本的にはひたすらに解説していく構成なので、単調といえば単調な本ではある。

中華料理といえば「中国四千年の歴史」であるけれども、四千年前の中華料理は現在のイメージとはかけ離れている。

 

もはや片鱗すらない、粉物・汁物である(手で食べているし)。

我々や世界の人がイメージする定番料理はせいぜい200年〜300年の歴史しかないのである。

 

なんといっても唐辛子が一般化したのが200年くらいなので、まぁそうなるわけだ。

もちろん、四千年の間、連綿と続いてきたから現在があるわけだけれども、何をもって伝統というのか、そこには簡単に整理できない問題がある。

 

日本の武道だってそうだ。

江戸中期に完成したと考えても、せいぜい三百年、十世代といったところ。

 

その間に社会や文化の劇的な変化があって、影響が無いわけがない。

「哲学とは時代の哲学」、つまりその時代の文化、文明、空気に支配されるというのは亡き師匠の言葉。

 

良くも悪くも、「伝統とは現代における伝統」なのである。

だからこそ、何を、どのように残すかが、常に問われていると感じている。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

 

人間こそホラー

海外事情の延長で、Kindle日替りセールで入手したこちらを読む。

 

第一次大戦後のドイツにおいて、ヒトラーが如何にして政権を獲り、独裁者となってあの惨事を起こしたか、詳細な文献資料を元に丁寧に解説された本。

ここまでしっかりこの分野を読んだのは初めて。

 

それにしても恐ろしい。

本当に怖いなと思う。

 

ヒトラーが政権に就いた時、ドイツ国民も熱狂をもって受け入れたのだ」みたいな文章を読んだ記憶があったのだが、本書読了後の印象はちょっと違う。

国の統治機構上許された、ちょっとしたカラクリと巡り合わせで少数与党として政権を獲り、国民が「ちょっと危なげなやつが首相になっちゃったけど、どんなもんだろうね」と様子を見ている間に、あれよあれよと権力を拡張し、プロパガンダを通じて国民を洗脳、明確な意思を持って史上稀に見る絶対権力者になった、と感じた。

 

悪意を持った人間が、一見合法的に基盤を固めていく姿は、どこにでも、いつの時代でも起こりうる姿。

そして、ちょっとした変化に、とりあえず様子見を決め込む大衆もまた、普遍的な姿。

 

いつなんどき、その組み合わせがまた起こらないと、誰が断言できよう。

いつ、どこでも起こりうる怖さに、背筋が寒くなる。

 

ダメなものはダメ。

様子見は先送りでしかない。

 

そんなことを思い知らされる一冊であった。

まぁ、ご参考ということで。

 

 

苦しいものが楽になったりはしない

ランニングの時、速いペースで走ると苦しくなってくる(当たり前だ)。

その苦しいペースの練習を重ねていかないと、速くはならない。

 

苦しいペースを重ね、だんだんトップスピードやタイムが向上していく。

ランニングを習慣化する前の小生は、ここまでのストーリーは理解していたのだ。

 

そしてキロ4分代で走れるようになれば、5分代は余裕だろうと思っていたのだが、これが勘違いだったことをその後に知る。

4分代で走れるようになっても、5分代もまあまあキツい。

 

いや、キツさは変わらないのだが、耐えられるようになっただけ、というのが実感に近い。

別に楽になったりはしない。

 

いや、3分代で走れるようになったら楽になるのかもしれないけれど(苦笑)。

そのためにはもっとキツい練習を重ねなければならない。

 

資料作りもそうだ。

特にありものの組み合わせではない、経営会議で議論のベースになるような問題提起の資料(「叩かれ台」と呼ぶ)、新規事業の企画書、偉い人のスピーチ草稿なんかの資料を作るのは本当に辛い。

 

作っていると本当に脳が疲れていくのを実感する。

それでも、その手の資料を人より作ってきたからか、他にやる人がいないからなのか、資料作りの仕事が回ってくる。

 

それなりにこなすための方法論は持てているけれど、毎度楽にはならない。

ただひたすら我慢しながら作るのである。

 

人生、そんなもんなのかもしれないなぁと思う、44歳の初夏であった。

まぁ、ご参考ということで。

 

 

歴史の読み方

ミャンマーの異文化に触れたので、こんな本も読む。

 

Kindle日替りセールでレビューも高かったのでポチる。

ロシア在住28年のアナリストという肩書きの人が、どういうことをして食っているのか、大変気になるところではある。

 

国際関係ネタ×扶桑社という組み合わせに、かなり右寄りの内容を想定しつつ拝読。

地政学とはなんぞ」という概略の説明から、日本とイギリス、中国とドイツの地政学的類似性を語り、その近代史と現在の状況分析、展望まで、という内容。

 

これは面白かった。

特に「地政学とはなんぞ」は、個人的に知っているようで知らなかったので「へー」の連続。

 

一つの視座を持つことで、こんな風に歴史や事件、各国の戦略的判断が紐解けるのかと、非常に爽快である。

代数・幾何のテストで綺麗に補助線が引けた時のような感じである。

 

日本の近代史においては、色々な分析や意見があって、百家争鳴の感があるけれども、「地政学的にはこう分析し、このように評価する、こうすべきであった」というのをクリアに説明できており、その是非は別途評価するとしても論旨の明解さは好印象を持った。

こんな風に切り口を持っているからこそ、歴史を「読む」ことができるんだなと感じる。

 

もちろん前提として、ある程度の「年表」は抑えておく必要はあるけれども、当時の人間が何を考え、どう動いたか、その時周辺諸国はどんなリアクションを取ったのか、そんなことを理解し、伝えていくことが歴史教育なのかなと思う。

娘にどうやって伝えていったものか。

 

まぁ、ご参考ということで。