人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

やりたいことは何時でも言えるようにしておけ

「やりたいことは何ですか?」

この質問は折に触れて自らに問われるものである。

 

大抵の場合、聞かれてから考えるようでは遅い。

普段から考えておくべきことなのだ。

 

特にキャリア・仕事に関するものは、日々でも毎週でも良いから考えておきたい。

チャンスをくれる人がいつ何時現れるかわからないから、というのはもちろんある。

 

そういう時は思いの丈をぶつけて、是非チャンスを掴んで欲しい。

でも、必ずしもそれだけではない。

 

「こうしたい」「ああしたい」というのは、主体的に仕事に関わっている証でもある。

日々仕事に真剣に取り組んでいるからこそ、課題が見え、前向きに解決しようと考えることができる。

 

いわば課題発見の思考プロセス。

課題発見は、新規事業でもリーダーシップでも重要なキーワードで、これができる人は組織の中でも価値が高いのだ。

 

「やりたいことは何ですか?」

自戒を込めて、整理しておきたいものである。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

 

仕事の価値は遥か遠くにあることも

こんな本を読む。

 

Kindle日替りセールでレビューも高かったので購入。

一応法学部で刑法専攻でしたし。

 

表紙の打ち出しとタイトルから、「美人弁護士が弱者のために日々頑張ってます!」みたいな内容かと思ったのだが、いやいや全然そんなことはなく、本年屈指の面白さのノンフィクションであった。

国選弁護人として、ある窃盗団の主犯を担当した著者が、依頼人のちょっとした疑問をきっかけに、弁護団を組成して令状なしのGPSを利用した警察捜査の違法性を争い、最高裁大法廷で違憲判断を勝ち取るまでの、ドラマチックなストーリー。

 

小生も知らなかったのだが、刑事事件で最高裁大法廷というのは、弁護士人生で一度もないという人が殆ど、というようなレアな展開らしい。

ベテラン・経験豊富とは言えない著者ら弁護団が、悪戦苦闘しながら必死の思いで立ち向かう姿は、プロジェクトXのようである。

 

痛快ではあるが、警察の現場にも検察にも弁護士にも大学の同期がいる小生としては、検察や警察をやり込めるサクセスストーリーに乗り切れないのは致し方ないところ(苦笑)。

法学部出身じゃない人には、少々難しいかもしれないが、個人的には非常に楽しめた。

 

さて、弁護団が本件事案の違法性を問う構成も、著者が刑事弁護人として日々仕事に取り組む動機も実は同じ。

ちょっとした行き過ぎ、弱い立場の人に付け入るような個人の権利侵害を許してしまうと、それが徐々に拡大して、結局は自分たちが暮らしにくい社会を生み出してしまうからだ。

 

目の前の被疑者はどうしようも無い悪党かもしれない。

そんな人間をなぜ弁護するのかといえば、目の前のその人間を弁護する必要もあるのだが、その活動を通じて良い社会を守るという、遥か遠くであるが、とても重要な価値が存在するのだ。

 

仕事のやり甲斐や喜びは、すぐ目の前に転がっているとは限らない。

難しいかもしれないが、その仕事の本当の価値を信じて、日々前向きな努力に取り組みたいもの、そんな風に感じた。

 

まぁ、ご参考ということで。

野性の証明

今朝は小雨。

大雨でも霧雨でもなく、ポツリ、ポツリと降る程度で、風は穏やか。

 

この程度であれば、いつものとおり走りに行く。

少し身体の重さを感じながら、遅いペースで近所の川の土手に到着し、走り続けていた時のこと。

 

前方左下の視界に鳩が目に入る。

そのさらに左下、土手の斜面下2メートルほど離れたところに、白地に少し斑のある猫を認識する。

 

「お、猫か」と思ったその刹那。

白い猫は一筋の帯となり、次の瞬間には両前脚でガッチリと鳩を捕らえ、その牙は鳩の背中に確かに食い込んでいた。

 

「あっ!!!」と思ったのも束の間、走る小生に驚いた猫は獲物を離してしまい、鳩はその人生で最速であろう速度で飛び去っていった。

驚かせて猫には申し訳ないことをしたと思うべきなのか、鳩を助けることができたと解釈すべきなのか…。

 

しかし、あれだけ見事な狩りを見せられた立場としては、あのまま成就させてあげたかった、申し訳ないことをした、というのが率直な思い。

普段何をして生きているのかよくわからない野良猫の、獣となる瞬間。

 

土手下の死角から忍び寄るのも見事。

飛びかかる速度や捕獲の技術の巧みさも見事。

 

集中しすぎて走りくる小生に気がつかないのも、驚いて思わず獲物を離してしまう少し滑稽なところもまた、本能のなせる業。

小雨降る朝に、小さいながらも本物の野性に触れた衝撃に、小生の中で確かに反応するものがある。

 

小生の野性はどこだ?

確かな手応えがあるそれは、どんな形で、いま何をしている?

 

ランニングもボクシングも合気道も、完全に統制された動きゆえ、実は野性と対極にあるのだが、それを突き動かすのは野性であり、修練によってまた野性を養うもののような気がする。

「持っているものは、出さなきゃダメだぜ」そんな声が聞こえて来る。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

精神論の害悪

武門に身を置くものとして、一度は読んでおかねばと手に取る。

葉隠 (知的生きかた文庫)

葉隠 (知的生きかた文庫)

 

 

先生は生前「武道と武士道は違うからね」とおっしゃっていて、特に「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な葉隠を引き合いに、「武士道は言ってみればサラリーマン道、勤め人の心得」と解説されていた。

果たして読んでみると、先生のおっしゃる通り。

 

それも筋金入りの、今であればスーパーブラックな社畜論のように感じられる。

それは本書冒頭に著者による葉隠の来歴解説があり、それを読んだ影響もあると思う。

 

原著の口述者である山本常朝という人は、才覚に恵まれてそれなりの地位に登用されたが、紆余曲折あって40代で隠居生活に入っていて、なんともサラリーマンを真っ当できなかった鬱屈した思いを感じるのである。

命を賭けて主君に奉公し、そのために日々努力し続け、人間としての欲や楽しみは一切認めないかのようなファナティックなスタンス。

 

死ぬことと見つけたり」も、死ぬ気でやればなんとかなるし、その覚悟がある者を主君は取り立てるのである、という感じである。

「オーナーが絶対権力を持つ会社の古参幹部によるありがたいお言葉」に近い印象を受けたし、こんな感じで十数巻にわたって綴られているのだとすると、ちょっとどうかしていると思うのだが。

 

確かにこういう価値観が受け入れられた時代はあったのだろうと思うが、当時の武士がみんな同じ考えだったとも思えないし、後の歴史を知る立場としては、組織が理不尽を個人に強要する思想的背景の一部を本書が担ったのであろうことを想起してしまい、あまり良い気分にはならない。

うん、こういう考え方は、我々の世代がそれを体感する最後の世代ということでいいんじゃないかな。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

 

真面目にお仕事

こんな本を読む。

仕事と人生 (講談社現代新書)

仕事と人生 (講談社現代新書)

 

 

小生が入行した時の頭取でいらっしゃったんですよね。

内定式と入行式くらいしかお目にかかる機会は無かったが、自伝も拝読したし、その後の活躍も遠くから眺めていたもんです。

 

残念ながら昨年お亡くなりになり、それを機に生前出版社が書き溜めて置いたコラムが新刊として世に出たということのようだ。

晩年の日本郵政時代に政治に振り回された嫌気からか、退任後はパッタリ表に出て来られなくなったけれども。

 

本書は、仕事への心構えを大先輩が語るという体で、内容に特別なものは無いのだが、小生にとってはまあ、見ず知らずの名経営者とは違うので、ありがたく拝聴するしか無いのであった。

大阪大学出身で50代の頭取就任というのは、異例といえば異例の存在。

 

ただ、東大出身の60歳が慣例という組織だったとしても、「これは」という人が居れば選ばれるんだよね、意外と。

日本の組織というのは役割と求める能力を良くも悪くもちゃんと定義しない。

 

それが組織のトップであってもそうだから、結局、無難な人が選ばれることが一番収まりが良い。

その程度の意思が働くだけなので、もし運良く「これは」という人材が現れれば、するすると昇進していくのだよ。

 

だから真面目にお仕事、頑張りましょうね。

まぁ、ご参考ということで。

 

とにかくインプット

人間の本質を知り思索のきっかけとなる読書、ということでSFの名作にちょっかいを出していたが、そのテーマで読書好きから必ず挙がるのが歴史物である。

ということで積読を引っ張り出す。

 

新装版 おろしや国酔夢譚 (文春文庫)

新装版 おろしや国酔夢譚 (文春文庫)

  • 作者:井上 靖
  • 発売日: 2014/10/10
  • メディア: 文庫
 

井上靖はいつぶりだろう、格闘技マニアの間では高専柔道経験者として有名なわけだが(?)、高校の教科書以来かもしれない。 

 

江戸時代に乗船していた船が漂流し、当時の帝政ロシアに滞在・帰国した大黒屋光太夫の物語。

とても長い本なのだが、本当に驚かされるのは著者の取材量であった。

 

丹念に資料を読み漁り、現地にも赴き、インプットにインプットを重ねて物語を編んでいる。

大黒屋光太夫はかなり記録を残しているとはいえ、物語の瞬間瞬間の心情まで記録しているわけではないから、そういった心情は創作だし、当時の江戸幕府の描写は現代日本批判のようでもあり、そこも創作なんだと思うのだが、実際にそうだったとしか思えないほどの説得力を持っている。

 

読み込んで読み込んで、考えて考えて、著者にとっては「こうだったに違いない」と考えられた「真実」、そんな感じがする。

浅いインプットで仮説をいくつも立てて、前に進めながら絞り込んでいく、そんなやり方もあるけれど、圧倒的なインプットで考え抜く凄み。

 

見習いたいものである。

まぁ、ご参考ということで。

稽古の組み立て

合気道には武器技の型がいくつか残っていて、毎朝一人稽古を日課にしている。

普段は素振り用の木刀を使っているのだが、ふと思い立ち今朝は居合用の模造刀を持ち出してみる。

 

が、違和感バリバリ。

剣術という意味では模造刀の方がリアルなはずなのに、木刀に慣れ切っているという…。

 

すぐに修正はできるとしても、じゃあ木刀の稽古に意味はあるのか、という話である。

師匠はよく、人を殴るからといって生の人間を殴り続けても「突き」は作れないし、より実戦に近いからといって組手だけやっていても強くならない、ということを空手を引き合いに説いてくれた。

 

ランニングで筋トレを組み合わせるのは常識になったし、ボクシングだってスパーリングばかりやっているわけではなく、走り込みは長距離短距離両方やる。

目的となる「あるべき姿」「ありたい姿」があって、そこに到達するプロセスとしての稽古をどのように噛み砕いていくか。

 

そして小生が違和感を修正したように、稽古で磨いた技術なりフィジカルをどのように実戦に戻すか。

その分解と統合の行き来が稽古の組み立て、設計であると考えている。

 

本来の型稽古は分解されたプロセスとして設計されており、試合や組手は実戦に戻す、統合するプロセスとしてデザインされている。

合気道は試合がないのだが、ないならないなりに、どうやって実戦への統合をデザインするか。

 

時に試合に勝つことが目的になってしまう武道においては、本来の目的をどのように据えていくか。

こういうことは武道に限らずスポーツでも、仕事でも考える必要がある。

 

仕事においては特に、実戦しか存在しないので、その中に育成のための設計を組み込まないと、人材が育たないというところが難しい。

実際、日々悩みながら取り組んでいるけれど。

 

まぁ、ご参考ということで。