人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

稽古の組み立て

合気道には武器技の型がいくつか残っていて、毎朝一人稽古を日課にしている。

普段は素振り用の木刀を使っているのだが、ふと思い立ち今朝は居合用の模造刀を持ち出してみる。

 

が、違和感バリバリ。

剣術という意味では模造刀の方がリアルなはずなのに、木刀に慣れ切っているという…。

 

すぐに修正はできるとしても、じゃあ木刀の稽古に意味はあるのか、という話である。

師匠はよく、人を殴るからといって生の人間を殴り続けても「突き」は作れないし、より実戦に近いからといって組手だけやっていても強くならない、ということを空手を引き合いに説いてくれた。

 

ランニングで筋トレを組み合わせるのは常識になったし、ボクシングだってスパーリングばかりやっているわけではなく、走り込みは長距離短距離両方やる。

目的となる「あるべき姿」「ありたい姿」があって、そこに到達するプロセスとしての稽古をどのように噛み砕いていくか。

 

そして小生が違和感を修正したように、稽古で磨いた技術なりフィジカルをどのように実戦に戻すか。

その分解と統合の行き来が稽古の組み立て、設計であると考えている。

 

本来の型稽古は分解されたプロセスとして設計されており、試合や組手は実戦に戻す、統合するプロセスとしてデザインされている。

合気道は試合がないのだが、ないならないなりに、どうやって実戦への統合をデザインするか。

 

時に試合に勝つことが目的になってしまう武道においては、本来の目的をどのように据えていくか。

こういうことは武道に限らずスポーツでも、仕事でも考える必要がある。

 

仕事においては特に、実戦しか存在しないので、その中に育成のための設計を組み込まないと、人材が育たないというところが難しい。

実際、日々悩みながら取り組んでいるけれど。

 

まぁ、ご参考ということで。