人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

名人・達人・豪傑

体格を活かした強さを持っている人間を豪傑と呼び、体格に頼らず技術で強さを身につけた者を達人と言い、さらに人格まで備えた人物を名人と称える。

そんな風に師匠から教えられたことがある。

 

そりゃあ名人になるのがいいと思うが、技術と人格は別ってことなんですな。

優れた技術を持っていれば、必然的に優れた人格を備えるわけではない。

 

子供がだらしないので武道をやらせたがる親御さんは多いが、だらしないのは本人の性格と躾の問題であって、週に数時間武道の真似事をやったところで治るわけがない。

礼儀作法は親の責任だし、人格の陶冶は本人の責任。

 

技術を突き詰める過程で真摯に自分に向き合い、優れた人物に教えを乞い、また修行を続けていく。

その結果として人格が磨かれること「も」ある。

 

そしてそんなことは、スポーツの世界でも普通に存在するはず。

武道の場合、生きるか死ぬかという極限を、稽古の中で表現することができれば、宗教に近い世界観の高みに到達することができるが、それは本当に限られたレベルの人達の話。

 

だからこそ名人として、体格を活かした豪傑より尊ばれた歴史があるのだ。

しかし、注意しなければならないことがある。

 

豪傑でも強いものは強い。

名人・達人が必ずしも豪傑より強いというわけではなくて、同じ強さなら名人・達人の方がより尊いと考えてきた日本人の価値観の話でしかない。

 

そこを勘違いすると、技術偏重の歪んだ世界観になってしまうのだが、そういう世界観に生きている関係者は多いんじゃないかと思っている。

何事もバランスをとって、冷静に見極めたいものである。

 

まぁ、ご参考ということで。