人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

引き際

新規事業開発の支援をしていて、難しいことの一つが引き際の見極め。

何が難しいといえば、新規事業が動き出すのも大変であれば、一度始めたものを止めるのも大きな決断なので、その合意形成が難しい。

 

失敗した責任を誰かが取りたくないから、と思われるかもしれないが、小生の経験上、そこまでセコい駆け引きで合意形成が進まないケースは多くない(無いとは言わない)。

大抵の会社は、既存事業がそれなりにうまくいっているから新規事業を始められるのだけれども、そういう会社は新規事業の失敗をあまり経験していないので、失敗してしまったということを認識することにそもそものハードルがある。

 

そして、もうちょっと頑張ればうまくいくんじゃないか、今はたまたま苦しいだけなんじゃないか、という疑問に至ると、これはもう未来予測なので誰も答えを持っていない。

じゃあ、実際の担当者に意見を聞こうではないか、となるのだが、担当者もたいてい「止めます」とは言わない。

 

ここまでやってきた以上、心情的に引くに引けない、という担当者もいる。

自分が止めると言ってしまうと本当に止めることになるので、その責任は取りたくないから、という担当者もいて、「止めます」とは決して言わない。

 

そういうわけではあるのだが、小生が伴走していて「あぁ、この辺が引き際かもしれないな」と思っているのが、担当者の自発的な動きが止まったり、やるべきことが思うように進まなくなったあたりである。

新規事業というのは、担当者の「これはイケる!!」という手応えをドライバーに進んでいく。

 

自発的な動きが止まったということは、その手応えがなくなってきたということだ。

手応えがあるうちは「その辺にしておけ」と言っても突っ込んでいくのが担当者の心境。

 

WBSで管理しようにも縦にも横にも広がって収集がつかない状況だ。

それが逆に、WBSで動きを管理しないと進捗がなくなってしまっているようでは、担当者は既に手応えをなくしているのだ。

 

そうなってから、担当者に「続けるの?続けないの?」と問い詰めたところで、上記の理由で「続ける」としか言わない。

だからこそ、担当者以外の関係者、あるいは経営者自身が、中止の判断を下し、担当者を開放しなければならない。

 

それをやらなかれば、担当者は延々「続ける」といい続け、管理側は進まないWBSを片手に「なんで進まないんだ」と言う説教をしなければならず、時間とコストが浪費されていき、ネガティブな経験だけが組織に蓄積されていく。

引き際は重要。

 

まぁ、ご参考ということで。

役職を合わせる会社、飛び越える会社

「金の話をする」なんてエントリーを書いたが、駆け出しの営業マン時代に同じく教えられたことの一つに「社長に会え」というものがあった。

営業というのは結局社長を抑えなければ話にならないのだ、だから会うための努力をしろ、というもの。

 

二十代の若造には、なかなかハードルが高い要求なのだが、だからこそ努力と工夫の余地があるし、本当にアポが取れた時の学びや経験は大きいので、とても意味がある(もちろん営業成果という意味でも)。

若い営業が果敢にチャレンジしてくるのが好きな社長も結構いるしね。

 

若造が社長に会うというのは、役職や立場を飛び越えることを推奨する会社。

ベンチャー企業的な気質を持った会社に多いだろうか。

 

逆に、役職や立場を合わせてくることを望む会社というのもある。

相手が部長ならこちらも部長、せめて課長。

 

いやいや、こちらの方が遥かに小さい会社なら、先方の部長には社長・副社長を合わせに行く、とか。

そういうことを大事にする会社というのは確実にあって、良いとか悪いではない。

 

その大事なポイントを外したらビジネスが進まないのである。

自分の所属している業界やお客様の業界は、役職を合わせる世界なのか、あんまり気にしないのか、商談を円滑に進める上では、よく見極めておきたいポイントである。

 

あ、あと転職時のカルチャーギャップでも、こういう話はよくあるので、業界またぎの転職を考えている人は、気をつけておいても良いと思う。

すぐに慣れると思うが。

 

まぁ、ご参考ということで。

「死刑 その哲学的考察」 読了 〜取り返しがつかないから踏み止まる〜

リンクはこちら。

 

死刑 その哲学的考察 (ちくま新書)

死刑 その哲学的考察 (ちくま新書)

 

 

 

著作権法の本を読んだので、法学つながりというわけではないのだが、一応大学の専攻は刑法総論だったのでね…。

Kindle日替りセールをポチるといういつものパターン。

 

このタイミングで選択したことにあまり意味はないのだが、ちょっと抽象度の高い本が読みたかった気分。

久しぶりのこういう読書は楽しかったけれども。

 

本書はタイトル通りの内容ではあるのだが、著者の立場は明快で、死刑反対である。

それを声高に押し付けるわけではなく、なぜ問題なのか、道徳とは何か、といった議論を踏まえ、政治哲学や冤罪の問題に進み、結論を示すという構成になっている。

 

なので、延々と道徳をめぐる論考が続くわけでもなく、新書を読むような読者を飽きさせない展開になっており、気持ち良く読むことができた。

言語で善悪を記述することはできない、といったあたりは、かなり抽象度は高かったし、他の論者の見解も聞いてみたいと思ったが。

 

著者の主張はこうだ。

まず、死刑には必ずしも期待される効果が論証されているわけではない。

 

そして社会構造上、冤罪というものは必ず起こりうるし、それによって死刑に処されてしまえば、取り返しがつかないので、やめるべき、というもの。

聞いたことがあるような主張であるものの、小生は非常に説得力があると感じたが、いかがだろうか。

 

誰しも間違いは起こす。

それを前提とした時に、致命的な間違いにならないようにするのは、仕事の場面では極めてベーシックな考え方だと思う(仕事に限らないとは思うが)。

 

それを社会構造でも持っておくことは、なんらおかしなことではない。

さらに言えば、誰もが冤罪の被害者になりかねないのだし。

 

興味のある方は是非。

まぁ、ご参考ということで。

仕事でモノを言うのは国語力?

受験生の時、一番得意だったのは国語。

ちなみに当時のセンター試験では自己採点200点満点でした、ハイ。

 

国語得意、英語まあまあ、社会他ダメダメで、三科目受験の私立文系中位どころに合格という高校三年生。

得意だったからそう思うのか、社会人になって国語力は本当に重要だなぁと。

 

一年目から厳しく言われる「報連相」だって、事実と意見を切り分け、相手に伝わるように表現するのはそれなりの国語力を要する。

上司の話を理解するのだって「作者はこの文で何を伝えたかったのか、○○字以内で答えなさい」という問題と同じ(日常会話のノリで聞き流していると手痛い失敗をするはずだ)。

 

小生が社会人になった時にはもう手書きじゃなかったから、漢字は読めればなんとかなったけれど、説得力のある表現や言い回し、語彙の活用には、それなりに難解な文章を読んできた蓄積が必要。

プレゼン資料は選び抜かれたメッセージしか使えないから、人の心を動かす文学的なセンス、推敲し切り捨てる創作的な力が求められる。

 

そこへきて、このリモートワークの流れである。

テキストベースでのコミュニケーションが圧倒的に増えたのではなかろうか。

 

zoomで表情が見えたとしても、ビジネスでの意思決定にはテキストベースでやりとりをして、齟齬がないように埋めていかなければならない。

伝わる文章を書くのは物凄く時間も体力も必要なのだが、「国語力が仕事力」になる時代が、ますます進むんじゃないかと、個人的にはほくそ笑んでいるのである。

 

まぁ、ご参考ということで。

金の話をする

駆け出しの営業マンだった頃に受けた指導の一つに、ちゃんと「金の話をする」というものがあった。

ともすると金の話は、じつは何かと有耶無耶になりがちなので、いい歳になった今でも、普段から意識するようにしている。

 

ビジネスの場面において、売る側は価格を明確に(書面で)提示する。

買う方も「幾らだったら買う」と言う。

 

転職にあたって、年俸が幾らだったら入社すると言う。

幾らだったら採用すると言う(直接当事者同士で伝えるかは別として)。

 

新規事業において、明確に売価を決定する。

買い物において、幾らまでなら買うのかを決めておく。

 

金について、あまりにハッキリしていると、日本ではちょっと「えっ」と違和感を持たれるとは思う。

だからこそ、有耶無耶にしないことが、ビジネスに於いて信頼されるポイントなのではないかと感じている。

 

金の話をすることは、営業の場面においてクロージングをすることと、心境的には似ている。

「ひょっとすると断られるかもしれない」と思いながら、クロージングをすることは度胸がいる。

 

外資系の生命保険会社では、わざわざクロージングの練習をする研修があったくらいだ。

でも、クロージングを有耶無耶にしたって、契約が取れるようになったりはしない。

 

白黒はっきりさせて、駄目なら駄目で次に進めばいい。

「金の話をする」、本当に大事なことを若い頃に教えてもらったと感謝している。

 

まぁ、ご参考ということで。

修羅場経験について

緊急事態宣言は解除されたが、多くの会社にとって厳しい経営環境が続いていることに変わりはない。

在宅勤務等でなんとか回せるホワイトカラー中心の仕事であればまだ良いが、飲食やサービスなど、リアルな現場中心の業種は相当大変なはず。

 

そんな会社はきっと「修羅場」に違いない。

しかし多くの人にとって「修羅場」は経験したことがない状況だと思うのだが、修羅場経験はその後の転職活動においてはプラスになることが多い、というのは知っておいて良いと思う。

 

貴重な経験はそれだけで価値があるといえばあるし、とことん踏ん張った努力は採用企業の期待値も高まるし、本人の体験としても意味があるものだ。

多くの人が未経験のはずなので、僭越ながら小生の体験を少しばかり。

 

小生、所属していた会社が潰れかけたことが何度かある。

だから、その後転職することになって転職回数が多くなってしまった、ということはあるけれども。

 

潰れかけている会社というのは、「修羅場」という言葉から想起されるような、ギラギラ・グラグラするような危機感のあふれる状況ではない。

基本的に会社の雰囲気は低調で、社員同士がネガティブな会社批判をポツポツと繰り返している、というような感じである。

 

このままでは本当に潰れてしまうから、なんとかしなければ!と有志が声を上げたところで、うねりにはならない。

前も書いたことがあるが、経営共創基盤の冨山氏が言ったとおり「危機的な会社ほど危機感がない」である。

 

で、転職に有利になるかもしれない修羅場経験について。

有利になる修羅場経験となれば、本当にヤバい状況で「切った張った」の業務を行うことを期待してしまうかもしれないし、そんな「切った張った」であれば、それなりにモチベーションも上がる人も多いと思うが、残念ながら多くの修羅場経験は、もっとテンションが低くてゲンナリするものだと思う。

 

「こんな奴らと一緒に沈んでってもなぁ」「転職したほうがマシだろうなぁ」という思いを抱えながら、ギリギリまで息が続くのを見極める、そんな感じ。

そのゲンナリする感じこそ、修羅場経験の一つの在り方だというのは知っておいたほうが良くて、「切った張った」も経験できそうにないし、さっさと辞めようとなると、修羅場経験を味わうことなく転職してしまうことになってしまう。

 

自分が「もう辞めよう」と思うより、もう少し(一見そうとは感じられない)修羅場を味わってみることが、現実の修羅場経験だし、だからこそそれを知ることが、きっと次のキャリアのプラスになるのだと思う。

まぁ、ご参考ということで。