人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

ニセモノの見分け方

人材業界が発端だと思うが、なんとなく日本のビジネスシーンに普及した言葉に、「アレオレ(詐欺)」というのがある。

誰かの手柄を、さも自分のもののように言う、「あれは俺の実績」略して「アレオレ」である。

 

記憶が確かならば、ソーシャルゲームが普及して、ゲーム制作経験者を各社で獲り合っていた時に聞くようになったから、2012年頃から普及フェーズに移行したのだろうか。

一番簡単な「アレオレ」の見破り方は、一緒に働いていた人に話を聞くというものである。

 

別に外資でやる「リファレンス」までちゃんとやらなくても良い。

ちょっと知り合いを通じて確認すれば、すぐわかる。

 

とはいえ、そういうアクションが取りにくい時もあるだろう。

そうなると、本人への質疑で探っていくことになる。

 

探るのは、「やった本人じゃないと語れないことを、リアリティを持って語れるか?」だ。

鉄板は、その実績を作るまでの苦労話と、それをどのようにして乗り越えたか。

 

苦労話は大抵世に出ないので、そのエピソードをイキイキと語れるのは当事者である可能性が高い。

もう一つ、人間には認知バイアスというのがある。

 

https://no-mark.jp/liveescape/brainpower/bias.html

これが全てではないが、優秀な人は、自己を過小評価する傾向がある。

 

総じてニセモノほど、大きく見せようとするものだ。

なので、小生はいつも、「当事者しか知らないことをイキイキと語れ、尚且つその実績に対して謙虚であるか」というところを見ている。

 

まぁ、ご参考ということで。

自社製品への愛は必要なのか

小生の父はある酒造メーカーの営業マンだった。

幼い頃、家族と外食する際には、自社製品を扱っているお店にしか連れて行ってもらえなかった。

 

ジュースが飲みたくても、自社製品がなければ水で我慢する、そういうことだった。

小学生くらいの頃、「父は働くことによって貢献しているのだから、プライベートでそこまでする必要性はないはずだ」と述べたところ、母親から「会社から給料を貰うというのはそういうことではない」と諭され、引き下がるしかなかった記憶がある。

 

社会人になって、流石に親の言わんとすることは理解できたが、自社製品への愛が必要かと問われれば、「それはあった方が良い」という頼りない答えしか持ち得ていない。

自社製品のターゲットが、社員のプロファイルと異なれば、そりゃ無理強いはおかしいし、経営的に見れば、「愛」がなくても売れる仕組みを作るのが本筋だとも思う。

 

選択肢が色々ある中で、「どうせなら自社製品を買っておいた方が、ねぇ…」という程度なら、そりゃ「愛」とは呼ばないんだろうし。

修羅場や高い目標にチャレンジしている環境下で、「何がなんでも!」というノリの、自社全体へロイヤリティが強い状態というのもまた、自社製品への愛かと言えば、ちと違うような気がする(ロイヤリティがあるから、自社製品をもっとこうするべきだ、というスタンスは、「愛」かもしれないが)。

 

はっきり言えるのは、仕事でそれなりのパワーと時間を費やしている以上、そこに愛がなければ、本人も会社も不幸であろうということ。

不幸であるなら、時と場合によっては、お互い別の道を歩んだ方がいいこともあるし、それが出来ないのなら、「好きになる努力」をするしかないのかもしれない。

 

という訳で、自社製品への愛は、「それはあった方が良い」と、頼りなく考えているのだが。

皆さんはどうだろうか?

 

まぁ、ご参考ということで。

ビジネスモデルが逆回転するとき

いま、書籍流通の世界では、いよいよ先行きを危ぶむ声が高まりつつあるようだ。

危機を訴える声は、それこそ10年以上前から存在したが、日本の書籍流通のビジネスモデルが盤石故に、大きく取り上げられることはなかった。

 

近年大きく問題化している理由は、流通の末端にある書店が撤退していることだろう。

それが何故問題なのか?

 

これまでの日本の書籍流通は、再販制度といって、書籍が売れなければ出版社に返品できる一方、定価販売を守るというルールになっていた。

書籍というのは、単なる商品という枠を超えて、文化、思想としての装置でもあり、たとえ売れなくても、イチ個人がいつでも手に取れる形になっていることに意味があったからだと理解している。

 

なので書店は、商品の鮮度を気にすることなく、売りたい本をある程度抱えておくことが可能になったのである。

ということは、書店はあまり売れない本をも、在庫として抱えている、小売業としてはあり得ないビジネスモデルであるとも言える。

 

さて、その書店が潰れるとどうなるか?

在庫の書籍は、全て出版社に返品され、資金を回収されることになる。

 

そうなると困るのは出版社だ。

地方の個人経営の書店ならまだしも、大規模なチェーンが畳むとなれば、その支払いは膨大なものになるし、世の中にはギリギリの経営を続けている零細出版社もある。

 

当然、連鎖倒産という可能性も、残念ながら現実のものになる。

良い時は盤石の仕組みであった再販制度も、一度逆回転を始めると、「盤石に」破壊を始める。

 

既に出版社の経営危機は、規模の小さなところを皮切りに、かつてない勢いで進行していると聞く。

完成されたビジネスモデルというのは、全体が変わると一気に逆回転を起こすものなのだ。

 

ビジネスに関わる人達は、この先書籍流通の世界で起こることを、注意深く見守るべきだと思う。

まぁ、ご参考ということで。

 

新規事業企画者が最も不幸になるパターン

新規事業を企画する人が、不遇な思いをする場面というのに、職業上必然とはいえ、残念ながら何度か遭遇したことがある。

一生懸命考え、検証してきたアイデアが、会社に否決されるというのは、とても不幸である。

 

しかし、もっと不幸なことがある。

自分のアイデアを、ただ偉いだけ、ただ管掌部門であるだけの人達に、修正されることである。

 

それで面白くなるならまだしも、ますます面白くないアイデアにされた挙句、結局企画した人がダメ出しされるという、更に不幸なパターンもある。

更に更に、その面白くないアイデアを起案者として押し付けられ、実行責任を負わされるというのが、最悪だと思う。

 

やりたくないことを押し付けられ、逃げることも許されず、結果責任を問われ、挙句「本気度が足らない」「人選ミス」などと言われては、会社を辞めたくもなるし、事実そういう人も存在する。

もちろん、会社の新規事業だから、フリーハンドで自分のやりたいことをやらせてくれるわけではない。

 

かといって、プロでもない外野の意見に右往左往して、やりたいことを見失ってしまうと、目も当てられない展開になりかねない。

わざわざ、リスクを取ってチャレンジしているのだから、楽しくなければ取り組む意味もない。

 

「仰る通りですね」と外野の意見を聞きながら、わからないように自分のやりたいことをしっかり潜り込ませておく、それくらいのしたたかさは、是非皆さんに持ってもらいたいと思う。

それがなければ結局、筋の良い事業案であっても、パワーが出ないからドライブしないし。

 

小生、「社会課題の解決を通じて個人の自己実現を支援する」というミッションを置いているが、それは新規事業の企画者に、不幸な思いをして欲しくないからでもあるのだ。

自分のために、したたかに参りましょう。

 

まぁ、ご参考ということで。

「妖怪ハンター」読了

一応リンクを貼っておく。 

 こんなビジネスメインのブログで何でこんなネタをと、小生も逡巡したが、思うところがあったので、あえて書いておく。

 

Kindle版の奥付は新しいが、原作そのものはもう40年以上前の作品である。

妖怪ハンター - Wikipedia

 

40年以上前のコンテンツが、指先一つで消費できる21世紀は本当に凄いが、それはともかく、本作品は、日本古来の風俗・文化・伝承をベースにしたホラー。

主人公が考古学者という設定で、古事記日本書紀などの古典や、地域地域の伝承などが折々語られる、アカデミックな仕立てもあり、たいへん奥行きのある、Amazonでも高評価の作品。

 

多分、荒俣宏帝都物語を面白いと思われる向きには、きっと刺さるのではないかと思う。

帝都物語 第壱番 (角川文庫)

帝都物語 第壱番 (角川文庫)

 

そうじゃない人には刺さらない(絵が既に怖いし)、そういう作品である。

 

小生、基本的にホラーの類は読まないし、好きでもないが、学生時代にこの作品を少しだけ目にする機会があり、その「奥行き」が忘れられず、常に頭の片隅にあった。

今般、Amazonの「Kindleまとめ買い」(大人買いともいう)に表示され、思わず買って読んでしまったという顛末。

 

それで、なぜブログで取り上げることにしたか、というのは、たまたまこういう記事を読んだから。

www.itmedia.co.jp

この記事の内容が正しいかどうかは、色々な見方があると思うが、人工知能に対して、欧米圏には「神ならぬ人の手で創造された知能」という背徳感があり、一方で日本人は「人ならぬものに人格を見出す」メンタリティがあり、それが色々な誤解を生むのでは、という論考である。

 

ちょうど「妖怪ハンター」を読み終わり、最近すっかり忘れかけていた、自分の中の古い日本的なところと、そこに感応する恐怖感を味わっていたところだったので、一定の重みを持って上記記事を読んだ次第。

思えば、日本のコンテンツは、結構ホラーが強いような気がする。

 

御大、水木しげる先生を引き合いに出すまでもなく、土俗的な文化や何気に長い歴史に蓄積された、古の人達の恐怖の念というのは、目に見えない形で我々を規定しているのではなかろうか。

それがまた、作品として昇華された時に、割と広く通用するものになるのではあるまいか。

 

余談だが、アメリカはやっぱりSFが強いような気がする。

昨年読んだこちらも、古典の類であるが、出色の出来であった。 

星を継ぐもの (創元SF文庫)

星を継ぐもの (創元SF文庫)

 

 

本題に戻ると、ビジネスでの戦略立案や、新規事業の構築にあたって、自らの寄って立つ所を明らかにするのは、ベーシックなセオリーであるが、我々は思いもよらないところに規定されていたり、自分では気付かないところに強みがあったり、というのはよくある話。

目に見えるところにばかり注意していても、答えはわからない。

 

企業の歴史、文化、メンタリティ、人材のタイプ・・・。

目に見えないところにこそ、その本質は潜んでいるのかもしれない。

 

ホラーを読んだせいか、「目に見えないところ」に、思考が奪われているのかもしれないが。

まぁ、ご参考ということで。

 

 

 

 

 

創業のDNAはどこに宿るか

ある大企業の本体と、かなり前に分かれて今は別グループの所属となった企業と、それぞれお付き合い頂いている。

分派した企業は、大企業の創業期の事業ではあるものの、本体とは違うドメインであり、その様な道を歩んだのだと理解しているが、双方の経営幹部は元々同じ会社の人たち同士である。

 

面白いもので、元企業の創業期のカルチャーを色濃く残すのは、分派した方だったりする。

本体の方は、事業環境の変化に合わせて、ビジネスモデルもシフトしてきたし、それに合わせて採用する人材も変えてきた。

 

分派の方は、事業環境の変化はあったものの、大きくビジネスモデルを変えることなく、どちらかというと多様化する形で成長してきており、ポテンシャル・人物重視で採用してきた人材像は、大きく変わっていない。

そうなれば、創業のDNAがどちらに受け継がれているかと言えば、自明である。

 

どちらが正しいのか、という論点では、それは時代に合わせて変えてきた方かもしれない。

実際、事業規模も利益も桁違いだし。

 

また、創業期のカルチャーが残るということは、それだけオールドスタイルだ、ということかもしれない。

しかし、どちらが楽しいか、と聞かれれば、きっと意見は別れるだろう。

 

安定期の企業に、今一度「火を入れる」仕事をしている立場としては、創業のDNAを受け継ぐ会社との仕事は、とても刺激的である。

「組織は戦略に従う」とは言うけれど、

事業戦略と組織、そして風土というのは、切っても切れないもの。

 

会社の在り方について、色々と考えさせられた夜であった。

まぁ、ご参考ということで。

 

「決め」の問題

新規事業企画において、ターゲットや価格、将来目標なんていうのは、起案する側が決めなければならないこと。

もちろん、色々試行錯誤をする中で、浮かび上がってくることもあるけれど、それでも、色々選択肢がある中で、ある結論を出すというのは、「決め」の問題である。

 

最初から「これじゃなきゃ!」という風に決めていることもあるが、そのまま最後まで走れることはなく、何らかの形で修正を余儀なくされる。

そんな中で、かなりの人が、「決め」を先送りにしようとする。

 

あたかも先送りすれば、いつか最適なターゲットや価格、将来目標が導き出されるかのように。

でもお分かりのように、そんなことは絶対になくて、一方でビジネスで求められる期限はやってくるので、どこかのタイミングで起案者自身が決断しなければならない。

 

更に言えば、新規事業企画では、どれだけPDCAを回したかが勝負。

決断を先送りしすぎると、いつまでたってもPDCAが回せないという、最悪の事態に陥る。

 

先送りするのは、否定されるのが怖いからだと思うけれど、これに関しては、「否定される前提で」、バシバシ「決め」ていくのが、もっとも正しいのだと考えている。

それでもやっぱり怖いのだが、勇気を持って頑張っていただきたい、

 

まぁ、ご参考ということで。