人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

去り時、引き際

現役引退はそれだけで一つのドラマである。

ドラマになるということは、それだけ重みのあるストーリーが内包されるという一方、誰しも決まった通りに綺麗に終われないということでもあると思う。

 

だって、綺麗に終われるのであれば、それはドラマにならない。

人間臭いドタバタがあるからこそ、含蓄のある展開になるわけで。

 

まだまだ働き続けねばならない小生のような年代においては、正直自分の去り時、引き際がどうなるのかについては、全く見当がつかない。

とはいえ、ハッキリしていることは、組織に頼らない生き方を選んだ以上、「走れなくなったら」終わりだということ。

 

あくまで現役のプレイヤーとして、お役に立てるかどうかで戦っている以上、それは宿命のようなもの。

若い頃は、随分困難な道のりのようにも思えたが、今となっては、現役のプレイヤーとしての役割が求められない仕事というのは、かえって居心地が悪い。

 

このまま行けるところまで行かせていただいて、お声がかからなくなれば気持ちよく引退。

そんな引き際を目指したいものである。

 

まぁ、ご参考ということで。

それを「ブラック」と呼ぶか?

「働き方改革」真っ盛りの昨今、いかに生産性を上げるか、労働時間を減らすか、といった議論が各所で行われている。

日本の面倒な労働慣行にどっぷり浸かった小生のような世代は、基本「ブラック」な感じで生きてきた。

 

是非を問えば、それは非であろう。

実は海外企業のエグゼクティブは、死ぬほど働いているのだが(https://www.businessinsider.jp/amp/post-104577)、それは雇用者としての立ち位置であり、人生を犠牲にするに見合う報酬もあり、という前提の中での話である。

 

翻って、小生の感覚で言うと、昔は仕事とプライベートをきっちり分けたいタイプだったので、土日に仕事なんてとんでもない、という感じであった。

しかしながら、仕事の量も増えていき、出来ること・やりたいことも増えていくと、業務は平日からどんどん溢れていく。

 

金曜の夜までに決着を付けようとすると、相当無理をしなければいけないし、日曜日にはどうせ、月曜からの仕事をどう進めていくかを考えてしまう。

人間関係だって、プライベートの交流も増えるけれど、仕事を通じて友人と呼べる人達も大勢居て、ますます仕事とプライベートの垣根が低くなっていく。

 

そうなると個人的には、5日分の平日業務を7日にならした方が楽である。

いわば365日仕事をして、タイミングが合えば完全オフという感じ。

 

サラリーマン的にはアウトな感じだが、労基法を遵守する体制の方がむしろ「しんどい」。

人によるとは思うのだが、こういう働き方だって認められることが、「働き方改革」だと思ったりするのだが。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

最後は本音がモノを言う

ビジネスの交渉でも、転職でもそうだけれど、本音はとりあえず奥にしまっておいて、タテマエからやり取りがスタートすることは多い。

いずれも「握手」をするタイミングでは、お互い本音をさらけ出しておかないと、あとあと不幸になるのは誰が見ても明らかなのだが、入り口で本音を隠して始まると、最後まで本音を隠したまま、いかに自分に有利に交渉を進めるかということが目的化してしまい、着地点が見えなくなるパターンはよくある。

 

そうなると、交渉の当事者双方がモヤモヤしたまま、形の上では進展しているものの、決断に踏み切れない状態が続いてしまう。

そうなると、まとまるものもまとまらない。

 

交渉を重ねている以上、双方前向きなのだから、モヤモヤが募ってきたタイミングで(大抵交渉がブレイクする直前になってしまうが)包み隠さず本音を明らかにしてしまうべきだと思っている。

隠し続けてしまうと、いざ本音を明かした時に、「そんなことを考えていたのか!」と不興を買うことを恐れる人は多いが、小生の経験上は、「あぁ、打ち明けてくれてありがとう。おかげでこちらもスッキリした。実はこちらもこう考えていて…」という風になり、最終的に握手出来ることが多い。

 

むしろ、早い段階で本音をハッキリ言った方が、交渉の主導権を握れるし、大抵の交渉上手と言われる人は、裏表のない人のような気がする。

まぁ、ご参考ということで。

 

 

自分の信じられるものを見つける

新規事業構築において、行き詰まるパターンの一つに、「何がしたいのかよく分からなくなる」というものがある。

開拓すべき新市場とか、売るべき新商品などのミッションが与えられている場合は、なんらかの形でPDCAを粛々と回せば良いので、まあ話が早いといえば早いと言える。

 

一方で、「何をするかから考えてこい」というミッションの場合は、「何がしたいのかよく分からなくなる」という風になりやすい。

そういった場合、そもそも考える行為自体、指示を受けて始めることになるので、既に受け身だったりする。

 

そうなると、ある種無理やり「伸びそう」「儲かりそう」「なんか困っている人が多そう」というネタをひねり出してくることになる。

それは当然思いつきだし、そのネタには愛も情熱も無い。

 

「何をするかから考えてこい」というオーダーを出す方も、やや強引ではあるのだが、そこにさらにネタを考えた側に「本当に可能性があると思っているのか?」「本気で逃げずにやり切るのか?」という問いが重ねられていくことになる。

ネタを考える側にしてみれば、理不尽かもしれないが、仕事というのはそんなもの、とも言えるかもしれない。

 

そうなってくるとやはり、自分がやりたいと思えるものを見つけてくるというのが、遠回りなようで最も上手くいくやり方になると思う。

これは実は、キャリアに対する悩みと同じでもある。

 

自分はこの先何がやりたいのか、どうあるべきか、どのように「成功」するか、と置いてみれば、キャリアプランニングそのものである。

ということは、解決策も一緒で、自分一人で内省するのはほどほどにして、多少なりとも興味のある分野をかじってみたり、業界の人に会ってみたりといった、外に意識を向けた具体的な行動の積み上げが重要になる。

 

外部の人や事業と、自分や自社の事業を対峙させた時に、初めて自分のことが見えてくる。

「見えない己が姿」を見えるようにするには、いきなり「図」を描こうとするのではなく、「地」から描いて「図」を浮かび上がらせるような方法論しかないのでは、と小生は思っている。

 

そうやって、自分の信じられるものを見つけられれば、あとはそれに向かって邁進するだけ。

楽しい毎日の始まりである。

 

なぜ小生が、キャリアの話と新規事業のお話を行ったり来たりしているのか、お分かりいただけたかもしれない。

ちなみに小生の「信じていること」としてのミッションは、「社会課題の解決を通じて、個人の自己実現を支援する」ことだと思っている。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

 

「それはあなただからできるんでしょ」問題

昨日取り上げた勝間和代氏の記事に関して、述べたかったことがもう一つ。

http://next.rikunabi.com/journal/entry/20170830_P1?amp=1

※上記再掲

 

こういう、何かに秀でることによって卓越した、というような話をすると、「それはあなただからできるんでしょ」というリアクションが、結構な確率で起きる。

偉そうな話で恐縮だが、小生は自分のことを話すと、「それはあなただからできるんでしょ」というようなリアクションを、人生で何度となく受けてきて、都度、寂しい思いをするのである。

 

「それはあなただからできるんでしょ」という言葉には、大抵こちらに対する多少の畏敬の念があると理解しているものの、「それは普通の人には(もとい、自分には)できない。あなたは普通の人とは(自分とは)違う」という、拒絶のメッセージを読み取るのだ。

小生は細かいことを継続することと、一定の量を処理することが得意だと思っているが、それとて天賦の才があったわけではなく、そういうことができるような方法論を身につけてきたわけで、その方法論も含め、誰でもできることであることを丁寧に説明し、それを強要したわけでもないのに、「それはあなただからできるんでしょ」という回答をされると、コミュニケーションを拒絶されたようで、かなりガッカリさせられる(もう慣れたが)。

 

それはあくまで小生の気持ちの問題と、コミュニケーションのスタンスの問題でしかないのだが、もう一つ、「あなただからできるんでしょ」と言いたくなるような境地でも、それを目指すしかないことだってあるということを申し上げたい。

https://hcm-jinjer.com/media/contents/b-contents-7053/

 

上記の記事には、スターバックスのアルバイト採用の記事だが、企業ブランドをキッチリ作り、働き手にブランドを担う一員として教育し、モチベートされた働き手が良いサービスを行い、それに憧れた人がまた入社してくるという、好循環を作っている事例が出てくる。

記事中にもある通り、「それはスタバだからできるんでしょ」と言いたくなるのだが、そう言ったところで、この極度の人手不足の中で、採用の問題は解決しない。

 

言いたいのは、スタバの取り組みは、採用においては王道だが、「王者じゃないから王道はできない」というのは、言い訳ではないか、ということ。

「それはあなただからできるんでしょ」という言葉は、時にコミュニケーションの断絶と、何もしない言い訳を生む。

 

なので、立派な話を聞いても、小生は「あなただからできるんでしょ」というようなことは極力言わないようにしているし、小生のような凡人でも何か真似できないものかと考えるようにしている。

こういうことを申し上げると、やっぱり「そういう姿勢はあなただからできるんでしょ」と言われるのだけれど(苦笑)。

 

まぁ、ご参考ということで。

客観視する力、意味付けする力

こんな記事がある。

http://next.rikunabi.com/journal/entry/20170830_P1?amp=1

 

ちょっと懐かしい、勝間和代氏がゲーム愛を語るという読み物である。

ゲームは目標に向けて最適な行動をとる訓練になるとか、上達するために上手い人に聞きにいくことも含め、仕事をうまくやるコツと一緒だとか、物語の世界に入り込むという意味では読書と同じだとか、色々仰られている。

 

理屈は仰る通りだとしても、全然納得感が得られない(と思う)のは、ゲームに対する理解が少ないのもあるけれど、ゲーム好きでも賢くならなかったり仕事ができない人になる、反証事例が幾らでも出てくるからだろう。

こういう話で抜けている要素は、(ゲームをするという行為を)「客観視する力、意味付けする力」を持っているか、ということ。

 

ゲームが好きで、ただやっているだけでは、それ以上でもそれ以下でもない。

どうやったら上手くなるかを人に聞くとか、論理構造を理解するとか、そのための組み立てをするとかは、その行為に取り組んでいる状態を認識し、ゲーム以外に応用することができなければ、意味をなさない。

 

そして、応用を行うことで、元々のゲームを行うという行為に意味付けをすることができ、今度はその意味付けを踏まえた上でゲームに取り組むから、それなりの節度を持って向き合うことができるし、さらに学びを深めることができる。

そういう意味では、別にゲームではなくても、なんでも学びの機会になるわけで、重要なのは、自分の行為を客観視する力、意味付けする力、ということだと思っている。

 

禅宗では、ただ座ることによって、悟りの境地に到達するのだから、極端な話、壁に向かって座るだけでも、進歩はできるのである。

まぁ、ご参考ということで。

 

 

見た目には責任を持たねばなるまいな

はじめに申し上げておくと、人の見た目に関しては、相手が男女を問わず、人間の方もファッションの方もあまりコメントしないことにしている。

服や小物を褒めることはあるが、生物学的な部分は、褒めても本人が気分を害されることもあるし、コンプラ上線引きも難しいので、ほぼノーコメントである(まぁ、顔には出ているかもしれないが)。

 

その上で、であるが、自分の見た目については責任を持たねばなるまいなと、最近つくづく思う。

加齢とともに、体型は崩れていくし、すぐ体調を崩すので肌が荒れたりするし、なのにメンテナンスする時間は限りなく少ないし。

 

なので、休息もトレーニングも、かなり頑張らないと難しいのだが、それを怠ると仕事もプライベートも支障をきたすので、修行僧のように励むしか無い。

一方のファッションの方だって、選択肢や職種や価値観が多様化したこともあり、かなり幅広い服装が世の中で許容するようになってきたと思う。

 

そうなると今度は、幅広い選択肢の中で何を選ぶか、というところに、その人の表現が問われることになる。

そんなこと、小生が気付くのが遅すぎたのかもしれないが(苦笑)、少なくともビジネスシーンでは、その要求はここ数年高まっているような気がする。

 

そんなこんなを考えると、自分の見た目には責任を持たねばなるまいなと、自戒を込めて考える次第。

まぁ、ご参考ということで。