人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

客観視する力、意味付けする力

こんな記事がある。

http://next.rikunabi.com/journal/entry/20170830_P1?amp=1

 

ちょっと懐かしい、勝間和代氏がゲーム愛を語るという読み物である。

ゲームは目標に向けて最適な行動をとる訓練になるとか、上達するために上手い人に聞きにいくことも含め、仕事をうまくやるコツと一緒だとか、物語の世界に入り込むという意味では読書と同じだとか、色々仰られている。

 

理屈は仰る通りだとしても、全然納得感が得られない(と思う)のは、ゲームに対する理解が少ないのもあるけれど、ゲーム好きでも賢くならなかったり仕事ができない人になる、反証事例が幾らでも出てくるからだろう。

こういう話で抜けている要素は、(ゲームをするという行為を)「客観視する力、意味付けする力」を持っているか、ということ。

 

ゲームが好きで、ただやっているだけでは、それ以上でもそれ以下でもない。

どうやったら上手くなるかを人に聞くとか、論理構造を理解するとか、そのための組み立てをするとかは、その行為に取り組んでいる状態を認識し、ゲーム以外に応用することができなければ、意味をなさない。

 

そして、応用を行うことで、元々のゲームを行うという行為に意味付けをすることができ、今度はその意味付けを踏まえた上でゲームに取り組むから、それなりの節度を持って向き合うことができるし、さらに学びを深めることができる。

そういう意味では、別にゲームではなくても、なんでも学びの機会になるわけで、重要なのは、自分の行為を客観視する力、意味付けする力、ということだと思っている。

 

禅宗では、ただ座ることによって、悟りの境地に到達するのだから、極端な話、壁に向かって座るだけでも、進歩はできるのである。

まぁ、ご参考ということで。