人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

そのニーズは本当に存在するのか?

新規事業では「あるある」の問いかけである。

一方で、その答えを掴むのが本当に難しい問いかけでもある。

 

例えば新規事業提案で、保育園をやりたい、というお話はよくある。

待機児童も解消しないし、社会的な要請も強いし、身近に困っている友達も居る。

 

それはわかるし、困っている人は小生の身近にも居るので、事業の可能性を感じるのはよく理解できる。

しかし、ニーズという意味では、もう少し踏み込んで考えてみたい。

 

小生はフルタイムで勤務していて、専業主婦の妻と未就学児童の娘が一人いる。

もし、突然の不幸で妻に先立たれたとしたら、小生にとっての保育園のニーズは無茶苦茶大きい。

 

フルタイムで預けるのが月10万円でも全然問題ないし、親代わりに良い教育を提供してくれるなら20万円でも払うと思う。

一方で、生活が現状のまま、妻が「そろそろ働こうかな」と思って預け先を探してみる、というのではどうだろうか?

 

求める価格は間違いなく違ってくるし、「親代わりの良い教育」なんていうのも別に要らない。

そもそも、「そのニーズは存在すると言って良いのか?」というくらい、個人的にはちょっと心もとない感じである。

 

なので、「保育園のニーズはある!」といっても、そのニーズの有り様は幅があるし、それぞれに対応する事業の組み立てや見通しも全く違うものになってしまう。

その辺りの踏み込みが、とても大事だと思うのだ。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

本当に優秀な人を採用しようと思ってますか

アンドリュー・カーネギーの墓石に『己より優れた者を周りに集めた者、ここに眠る』と彫ってあるというのは、あまりにも有名である。

ちょっとキザな気もするが、いやだいぶキザだが、この言葉を本当に実感している人はどれ位居るのだろうかと思う。

 

同じ言葉を述べながら、結局自分より格下のメンバーを集めたがるリーダーや、集めたは良いものの自分が負けることを恐れて相手を潰してしまうリーダーも、不幸なことだが目にしてきた。

エージェント時代にクライアントとお話していて、「既存の社員ではもはや限界だから外から優秀な幹部を迎えたい」というオーダーはあったけれど、正直「それって今までついてきてくれた社員に失礼じゃない?むしろ能力を活かし切れてないだけなんじゃないの?」などと(エージェントなのに(笑))思ったものである。

 

小生の新規事業の世界は、昨今お引き合いが多く、忙しくしている状況だが、ここに来てクライアントの期待値がより一層高まっているのをひしひしと感じている。

その期待に応えるためには、小生より優秀な人材に加わっていただかねばなるまいと、真面目に考えている。

 

もちろん小生自身のレベルアップを怠るつもりはないが、ビジネスの世界はそんなに悠長なものではないので、そう思うのだ(ちなみに小生に採用の決定権は無い(苦笑))。

ビジネスが量的に拡大するのであれば、自分より優秀な人間を求める必要はない。

 

質的な向上を求められているから、優秀な人を採用しなければならない。

大事なのは、優秀な人を集めたから質的に向上するわけでもなく(それでは前述のクライアントと同じだ)、あくまで市場の要求があって、そのタイミングで優秀な人材を集められた時に、進化できるのだと思う。

 

そういう意味では、なるほどカーネギーさんはそういう事を仰っていたんですかねぇと、浅学を恥じ、やっと体感できた環境に深く感謝するのである。

まぁ、ご参考ということで。

 

 

 

社会の変化と向き合う

若者の〇〇離れ、というのがある。

聞くところによれば、100個以上あるらしい。

 

若者はなんでも離れまくりである。

アメリカを中心に言われている「ミレニアル世代(1981年から1996年に生まれた人々で、その人口はアメリカ全体の約2割、7000万人以上に上る)」も、彼の国で色々離れているらしい。

 

https://www.businessinsider.jp/amp/post-102449

記事のタイトルは「ミレニアル世代が壊滅させる19のアメリカのビジネス」と、なかなか刺激的である。

 

読んでいただければ、日本とも共通する部分もあるし、なんとなく傾向として見えてくるものもあるような気がする。

一つは世代間ギャップの話であって、親世代に流行ったものが廃れている、というもの。

 

廃れたのは、提供側の問題もあるだろうし、別のものに客を奪われた、というのもあるだろうけれども。

もう一つは、なんとなく趣味趣向が分散していると感じられることだ。

 

これは多分、情報の取得ルートが多様化し、情報量も増え、なおかつ能動的に取りに行くようになって、分散化しているはず。

壊滅しそうなビジネスは皆、一方通行で「これがカッコいい」「みんな買っている」というような広告を、テレビや雑誌広告に大量出稿し、全国的なブームを作ってきたイメージを想起させる。

 

全国的な長いブームが、分散化する社会の流れとだんだんマッチしなくなって、「壊滅しそう」になっているとのではないだろうか。

思うに、分散化は、戦争や革命でも起きない限り、逆行することはない。

 

広がった情報というのは、誰かがコントロールすることは極めて難しいのだし。

そういう意味では、今後ますます、マスマーケティング的なビジネスは、厳しくなって行くのではないだろうか。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

なぜ組織内コミュニケーションに、こうも手間がかかるのか?

昨今話題の「働き方改革」を巡って、下記のような主張を目にした。

https://www.businessinsider.jp/amp/post-100838

 

この記事の趣意自体は、読むに値すると思うので、是非ご一読を。

しかし、小生が引っかかったのは、記事中の「大企業の労働生産性が悪い一つの理由は、特に根回し文化の日本企業の場合、コミュニケーションのすり合わせにすごく時間がかかるからです。」という一文である。

 

それは確かにそうなのだが、何故そうなのか、という疑問が思い浮かぶ

幾つか考えつくのだが、今日提起したい仮説は、実は多様性の裏返しなのではないか、というものである。

 

ご承知の通り、日本の企業は長い年月をかけて偉くなっていくので、現場の担当者と意思決定権者が親子ほど(下手をすると孫ほど)歳が離れていることが多い。

ここでまず、世代間ギャップを埋める努力が必要になる。

 

事業においても、「選択と集中」に振り切らず、多様な事業モデルをインハウスで抱えている大企業は多い。

事業が異なると、当然事業に対する見立てや価値観はバラバラなので、関係者の出身母体が異なると、価値観の齟齬が生まれやすい。

 

なんとなく意思決定が早い企業というのは、オーナーが全てを決めるような会社を別とすれば、モノカルチャーで、事業モデルもバリエーションが多くない会社のように思う(リクルートを想起する人も居るかもしれない)。

若者だらけでで単一事業の会社があったとすれば(スタートアップっぽいが)、その会社にとっての「正解」って、そもそも多くならないので、意思決定で揉めようがない気がしないだろうか?

 

政治の世界は古今東西、根回しが必要だが、戦略遂行局面での実行部隊たる軍隊に根回しは要らないのと同じかもしれない。

では、そういう多様な組織、今後ますます多様になっていく組織で、コミュニケーションコストを下げ、意思決定をより良いものにするためには、どうしたら良いのか?

 

これはもう、決裁権限を現場に落としていくしかないように思う。

全体の権限を下におろしていくのは、それこそ根回しが大変かもしれないので、ありきたりだが「タスクフォース」的な在り方を、上手に使い続けるのが、結局は良いのではないだろうか。

 

多様な議論をタスクフォースで吸収しつつ、意思決定そのものには最小限の関係者で実施する。

多様性が仇になるという認識を元に、タスクフォースの運用を進めていけば、きっとこれまでとは違った成果に繋がっていくのでは、と考えている。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

 

 

 

自分を疑うこと、自分に自信を持つこと

この記事は良い話だったのでシェアしたい。

http://next.rikunabi.com/journal/entry/20170821_P

 

今日申し上げたいことは、殆どこの記事を読んでくれという感じであるが、役者として自らに自信を持つことと、それを疑って謙虚に努力することの、「行ったり来たり」の述懐である。

ビジネスの世界に生きてきた人間からすれば、役者の世界なんて、努力がそのまま報われるとは思えないので、諦めずに努力を続けることは凄いと思うし、翻って自分のいる世界が、如何に分かりやすいロジックで動いているか、ということでもある。

 

社会人人生を、自分の能力に疑問を持つところからスタートするか、自信を持つところからスタートするかは、きっと人によるのだろうけれど、やっぱりどちらも大切なことだと思うのだ。

自分を疑って謙虚に努力すること、これは「良いこと」なので、みんな心では取り組もうと意識しているけれど、果たして「本当の意味で」努力しているか。

 

「謙虚な日本人」的に、自分を低く見るのは簡単だけれど、自らを信じることができなければ、誰も信じてくれないし、自信を持つということは「やれる」というレベルを高く設定することでもあるので、これもまたタフな要求で、その要求に応える努力をしているか。

自分を疑うこと、自信を持つこと、何れにしても、実は高い要求を自らに課すことであり、その試練をくぐり抜けた人間にだけ、ひと時の安息があるということを、引用した記事は伝えているように思えてならない。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

 

 

 

 

ネガテイブ情報は酒を注ぐように

先週のエントリー、「別れても好きな人(笑)」に教わった話である。

当時、駆け出しの人材紹介コンサルタントとして、企業と人の間に入って仲介役をしていたわけで。

 

転職の場面では、「初めまして」からコミュニケーションが始まるのだが、企業も人も、当然最初は綺麗な面を見せる。

しかし、だんだん話が進んでいくと、お互い全て綺麗なわけではないから、そのあんまり綺麗ではない部分を、どう相手に伝えるか、という問題が持ち上がってくる(伝えない、というのは論外である)。

 

そこで教わったのが、タイトルの「ネガテイブ情報は酒を注ぐように」である。

この話には、酒を注ぐ我々と、日本酒の一升瓶と、コップと、酒を飲む相手方が登場する。

 

日本酒の一升瓶がネガテイブ情報、飲む相手方がその情報を聞く相手だ。

で、酒を飲ませるのに、いきなり一升瓶をラッパ飲みさせる人はいないわけで、ネガテイブ情報を一気に全部伝えてはいけない。

 

まずはコップに一杯、相手のキャパシティの範囲で注ぎ、それをグッと吞み干すのを見守る。

呑んだらまた酒を注ぎ、また吞み干すのを待つ。

 

それを繰り返し、一升吞み干すまで続けるのだ。

もちろん途中でダメになってしまうこともあるけれど、要点は、相手のキャパシティを見極め、伝えたことを消化するまで待つ、ということ。

 

この話を聞いてから、小生はずーっと実践しているつもりなのだが、これって営業トークでも、事業プレゼンでも、金融機関とのリスケ交渉でも、全部一緒だと思うのだ。

全てのコミュニケーションは相手があり、相手目線でデザインし、実行すること。

 

コンサルタントの介在価値というのは、こういうコミュニケーションが出来ることも、その一つだとは思うのだが。

まぁ、ご参考ということで。