人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

楽をしようとすれば、楽はできない

はじめに断っておくが、あくなき生産性の向上は、大好物である。

本来は怠け者なので、常に楽をしたい方だ。

 

しかし、だからこそわかるのだが、生産性の向上は、不断の努力で成し遂げられることが多い。

いや、そういう類が殆どではないか。

 

当方、タッチタイピングは喋るより早いし、「ながら」でも打てるが、その生産性は多分タイピングが遅い人には理解できない効果だと思う。

でもこれは、早くしようと思って訓練しないと、今以上には絶対早くならない。

 

何か気の利いた文章を書けと言われれば、まぁ千五百字くらいならサラッといけるけれど、それだって、こうやって毎営業日ブログを書き続けているから。

それを最初から楽しようとすると、永遠に楽はできないのだ。

 

フルマラソンを4時間で走ろうとすれば、普通の人にとっては全く楽ではないが、2時間代で走れるようになった人にとっては、むしろ遅過ぎて苦しいくらいかもしれない。

走る能力を向上させない限り、フルマラソンは結局のところ、誰にとっても大変なことに変わりはない。

 

楽をしようとすれば、楽にこなせるように自分を向上させるしかないのだ。

自戒を込めて。

 

まぁ、ご参考ということで。

日本の会社員は「カーズ クロスロード」を是非ご覧あれ

一応予告編のリンクを貼っておく。

https://youtu.be/xmiEKS6bFnY

 

主人公のレーサーに次世代のライバルが現れ、失意の中、如何に再起を図るか、というそれだけで泣かせるプロット。

見ていただければわかるが、主人公はまさに、今の日本企業そのものの姿ではないか。

 

最終的にどうなるかは、「見てのお楽しみ」なのだが、是非色々思考を巡らせていただければと思う。

小生は100パーセント同意ではないのだが、そのような考え方もあるだろうと納得はした。

 

娘の為にレンタルしたのだけれど、テーマをそのように受け止めてしまったので、ニコリともせず真剣に三回も見てしまった。

年末年始、特に会社で責任の重い立場の人ほど、騙されたと思って見ていただきたい。

 

まぁ、ご参考ということで。

自分の役割に名前を付ける

たまたま同僚と、肩書について雑談をしていて。

最近の小生の周りでは、「ビジネスデザイナー」とか、「クリエイティブディレクター」とか、「プロデューサー」などの肩書を目にするようになった(

もちろん昔から「コンサルタント」も見る)。

 

カタカナが多いとか、そんなことはどうでも良いのだが、肩書って基本的には組織から「あてがわれる」ものではあるものの、自分の役割をどう定義するか、という問題でもあると思う。

実態の反映としてどうか、という観点もあるし、多少は「こうありたい」という理想が描かれたものであっても良いだろう。

 

いずれにしても、役割が定義されたものとしての肩書というのは、思いのほか意味合いが大きい。

「肩書が人を支配する」ほど強力とは言わないが、ある種のアイデンティティの反映ではあると思うので、自らに指針と自信をもたらすものだろうし、そういう肩書を名乗るのが良いのではないだろうか。

 

ちなみに小生の仕事上の肩書は、「インキュベーションコンサルタント」であるが、正直実態と乖離しているような気がしなくもない(笑)。

インキュベーターというのは、卵の孵化器なのだが、そんなに暖かく(温めて?)見守る感じでもなく、むしろクライアントよりドタバタしている(苦笑)。

 

コンサルタントというほど、素晴らしい見識があるとも思わない。

気の利いたアドバイスだけでお金をいただける自信も、残念ながら無い。

 

一番近い役割で言うと、マラソンの「ペースメーカー」なんじゃないかと感じている。

クライアントがレースで勝てるよう、早過ぎず遅過ぎずの一定ペースで走り、時にコースをガイドし、時に風除けになりつつ、最後は30キロ地点で離脱し、行方を見守る。

 

ま、ピッタリだとは思いつつ、名刺に肩書として書いたら、「何ですか、これ?」って絶対言われると思うけど…。

いずれにせよ、肩書は自らに指針を与えてくれるので、よく考えて名前は付けたいものである。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

人生における決断のあれこれ

今日はこの記事をシェアしておこう。

http://blog.tinect.jp/?p=45903

 

人生における重大な決断ができる人と、そうでない人がいるという話と、できないからといって必ずしも悪いわけではないはずだ、という意見である。

当ブログでも過去に、人生における決断については何度かコメントしてきたと思う。

 

小生自身も、最初の転職で初めて人生における決断をしたと思っているし、その決断があったから今がある、とも述べたはずだ。

しかしながら、この記事同様、決断しないという決断も、同じくらい尊重されて然るべきだと考えている。

 

ウロウロキャリアを模索した立場からすれば、一つの環境に留まり続けた人のことは本当に尊敬するし、そういう人にしか出来ないことというのも、間違いなく存在するのだ。

「あの決断をしたから今がある」というのは、一見カッコよく見えるかもしれないが、因果関係上「当たり前」のことを言っているに過ぎない。

 

なんとなくカッコよく見えるのだとすれば、それは発言している当人が、現状をポジティブに捉えていることが伝わってくるからであって、過去の決断の有無とは関係ないのだと考えている。

大事なことは、「今」が充実しているかどうか。

 

充実していないのであれば、どう充実させるか、という議論の先に、決断を求められるかどうかというのが初めて出てくるし、そこで決断しなかったとしても、その結果を前向きに受け止められるのであれば、それもまた良しである。

人材エージェント時代のお客さんで、悩みに悩んで、結局転職せず、幸せに過ごされている人を何人も知っているが、それはそれで素晴らしいのである。

 

まぁ、ご参考ということで。

地獄への道は善意で敷き詰められている

ヨーロッパの諺らしい。

個人的にはマルクスの言として聞いた記憶があるが、どうなんだろう。

 

一応解説のブログを貼っておくが、「自己責任」が問われる欧米らしい言葉である。

http://mojix.org/2009/03/20/the_road_to_hell

 

ちょっと違う解釈だが、組織に属していて、それなりに理不尽な目にあったり、自分の希望と異なる展開に遭遇したりするけれど、大概は誰かが悪巧みをしたわけでは無くて、善意からはじまっていることが多いと思う。

人事然り、仕事の進め方然り、殆どの人が、「本人のためを思って」行なっていることが、本人にとっては物凄いストレスになる状態。

 

明確な悪人がおらず、善意からということがわかっているので、本人も怒りをぶつける場所がなく、余計ストレスが溜まるという…。

まさに悲劇である。

 

時々、びっくりするほど酷いことを言う人も居るが、そういう人も悪意はほんの少しだけで、「自分の考える」正しさとそぐわない事案に、自分の考えを述べているだけだったりする。

それが証拠に、こちらが逆ギレして謝罪を求めると、(だったら言わなきゃいいのにというくらい)申し訳なさそうに謝るものである。

 

ま、そんなこと、普通の人はしないと思うけど(苦笑)。

いずれにしても、そんなストレス要因から距離を置くためには、残念ながら「聞き流す」しかないんだよね。

 

ありがたく拝聴はするけど、結局責任取れない人のアドバイスだから、自分にとって都合のいい部分だけ頂戴する。

色々アドバイスする機会も多いけれど、大抵の人はそんな感じだし、アドバイスが不要な人ほど、他人のアドバイスを真剣に受け止めすぎる傾向があるような気がするし。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

忖度上等

別に今年一年を振り返るつもりはないのだが、「忖度」というワードは社会の多くの耳目を集めた。

大企業のネタだったということもあるが、それだけみんな心当たりがあった、ということでもあろう。

 

あの企業の「忖度」は、言外の意味を読むことで、責任の所在を曖昧にするというエゲツない仕組み(結局断罪されたようなものだが)。

また、上司の明確な指示無しに現場が動くという、極めて日本的な話でもある(きっと海外の人からすれば、そんな組織は恐ろしくてたまらないに違いない)。

 

しかし、こと営業の場面においては、忖度はどんどんするべきだと思う。

むしろ忖度のできない営業は、競争の中で勝ち残れないのではなかろうか。

 

決まった商品を、決まった価格、決まった納期で納めるなんていう世界は、もはや営業が介在することは無くなってきている筈だ。

如何に顧客のニーズを先回りし、期待を上回る提案ができてナンボに、世界は突入している。

 

そんな世界にあっては、顧客に答えを求めても、当の顧客が「何がしたいか」なんてわかっていないし、ましてや顧客から要望が出てくるのを待っても、永遠に話が進むことはない。

待ちの姿勢では、「次の機会」なんて絶対に訪れないのだ。

 

我々のビジネス環境は、もう20年以上前から、そんな状況にある。

なので、如何に深く顧客や、顧客を取り巻く環境を理解し、顧客自身ですら認識していなかったビジョンを提示出来るか。

 

そんな高度な忖度が出来なければ、今後ますます、我々人類の居場所は無くなっていくのだと思う。

まぁ、ご参考ということで。