人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

市場分析についての考え方

新規事業に関連して、検討している事業案の対象市場が何で、それがどうなっているか、というのはとても重要な論点である。

そもそも、成長している市場を探し出し、事業案を後から検討するという考え方もある。

 

しかし、市場分析をするためのデータというのは、大きな括りの業種別だったり、地域別だったりなど、公的セクターや全社視点で使えるかどうか、というタイプの物が多い。

新規事業開発においては、適切な分析データが無い、というのは良くある悩みである。

 

しかし、データが無いより罪深いのは、無いからといって関係ありそうな「それっぽい」有望巨大市場を参照して、社内説明に使ったり、安心したりしてしまうことだ。

なので、新規事業開発で市場分析をする際に、小生が気をつけなければならないと考えているのは、以下の二点だ。

 

一つは分析の目的で、市場分析は事業案が関わる市場の「力学」を知るために行うということだ。

勝者が更に勝ち続け、大手が寡占しているのか、トップが常に入れ替わる群雄割拠状態なのか、技術革新が起きているのか起きた後なのか、などなど。

 

事業を作る以上、戦って勝利するために行うわけで、その戦場はどんな地形、天候なのか、というのは当然理解しておくべき。

※もう一段レイヤーを落とし、「業界分析」というのもあるが、これは例えていうなら「ゲームのルール」、すなわち「何をもって勝ちというのか」を把握するためのものと考える

 

もう一つは、事業の提供価値を見定めて、「その価値を評価してくれる顧客はどれ位いるのか」という観点で分析しなければ、意味が無いということだ。

例え、顧客ターゲットがグローバルで何億人・何万社存在しようが、考えている商品・サービスにお金を払ってくれる程の価値を感じている人が一人も居なければ、売上は永遠にゼロである。

 

とは言え、「その価値を評価してくれる顧客はどれ位いるのか」という問いに答えてくれる外部データは存在しないので、結局はマクロデータと、アンケート・インタビューなどを組み合わせた推計、あるいは「手応え」に近い実感値になってしまうことが多い。

しかし、だからと言って「それっぽい」データを引用して取り繕っているだけでは、事業を見誤ってしまうし、いつまでも不安の中で事業を推進する羽目になる。

 

ということは、アイデア出しのための市場分析(有望市場から事業案を探すパターン)を除けば、実は市場分析というのは、検討プロセスの中盤以降で良いと思っている。

序盤は先ず、事業が提供する価値は何であるべきか、其処を見定めることにパワーを割きたいし、見定めてからでないと、上記の通り良い市場分析が出来ないからだ。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

なぜ人は出世を目指すのか?

「出世する人になりたければ、◯◯しなさい」的な記事をたまたま読んだのだが、きょうびのビジネスパーソンで、「出世したい」と思っている人は、どれくらいいるのだろうか?

より大きな仕事、より影響力のある仕事をしたい、というモチベーションはわかる。

 

ネガティヴな言い方だが、それは承認欲求の肥大化だし、ゲームでハイスコアを目指すようなものだろう。

そのための手段として、出世が必要ならば、手段と目的を混同しないレベルで努力すれば良い。

 

繰り返すが、そのロジックならわかる。

しかし、出世するために組織に隷属するとか、ハッタリだけのお勉強をしたりとか、出世する人は長財布を使うんだ、みたいな話はよくわからない。

 

もともと、日本の賃金カーブというのが、大企業は長く勤めるほど有利、役職が上がるほど有利な構造になっていて、会社員と専業主婦の家庭環境からも、一つの会社で長く勤めて上を目指すのが最適な戦略だった訳だ。

しかし、今や賃金カーブはフラット化し(同一労働同一賃金なんてもっとフラットだ)、それもあって専業主婦は激減し、共働きゆえに男性社員の家庭へのウェイトも父親世代とは比較にならないくらい上がっていて(それでもまだまだ個人差が大きいが)、会社への隷属は現実的には厳しくなっている。

 

労働力人口の減少を考えると、共働きはもうデフォルトなので、「会社にベッタリでその見返り的に評価を得る」というのは、現実的にそれが出来る人が居なくなり、能力・実績ベースでの人材評価に、グッとシフトしていくのではないだろうか。

イメージとしては、「頑張って偉くなる」というより、「自然と優秀な人が浮かび上がっていく」みたいな、もちろん昔からあった流れだけれども、少なくとも「モーレツサラリーマン」はもう終わりなのではなかろうか。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

ゴミを拾う話

若い頃、当時のおじさんから、教訓めいた話をたくさんされて、こんな話はもうみんな知っているかと思っている。

が、最近の若い方とお話しすると、案外ご存じない方もいらっしゃるので、一応申し上げておく。

 

道端にゴミが落ちていた時に、人間のリアクションは三つに分かれる。

すなわち、気付いてそれを拾う人、気付くが拾わない人、そもそも存在に気付かない人、だ。

 

もちろんこれは、ビジネス上の寓話で、「ゴミ」をビジネスにおける「本質的な課題」と読み替えれば、それにちゃんと向き合って解決する人、課題は認識しているけどスルーする人、そもそも課題に気付かない人、と表現できる。

気付いてスルーする人と、そもそも気付かない鈍感な人と、どちらが罪深いか、という議論をされることは多いが、まぁ役に立たないという意味ではどちらも同じだろう。

 

一方で心の純粋な方からは、課題を認識しているのにスルーする人なんているの?という問いが出るのだが、往々にして「本質的な課題」というのは厄介なので、スルーしたくなる気持ちも理解できる話だったりする。

この、気付いて拾う人、気付くが拾わない人、気付かない人というアナロジーには、小生的な解釈を加えると、環境設計はどうなのか?というポイントを問いたい。

 

基本的にビジネスパーソンには、気付いて拾うことを求めたいが、一方で、拾っても捨てるゴミ箱がないという環境だったら、人はどんなリアクションを取るだろうか?

ゴミを持ってずっとウロウロできない以上、拾いたくても拾えない、ということもあるだろうし、一方で、拾って捨てるモチベーションがもともと高くない人でも、目の前にゴミとゴミ箱があれば、自然と捨てるアクションになりそうである。

 

なので、本人の姿勢も問題にするものの、あるべき行動を促す環境設計になっているのか、というのも、重要な論点だと思うのだ。

もちろんこれは、経営側の考え方で、個々の社員は、ゴミを見つけたら拾うべきなのよ、と思っているのだが。

 

まぁ、全然違う視点として、「私がゴミを拾えば、清掃を生業にしている人の仕事を奪うから拾わないのだ」なんていう人もいるけどね。

そういう人は放っておくとして。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

 

成長しない人間は自ら成長する機会を見過ごしている

「日々勉強です」「まだまだ修行が足りません」という様なことを仰る方々はよくいる。

大変謙虚で結構だと思うが、小生自身は表立って申し上げることはない。

 

その辺の言動に対して、一定の違和感を持っており、はっきり理由を申し上げられるわけではないが、なんとなく「そんなお気楽なコメントをしているうちは、まだまだ甘いんじゃないか」というような感覚を持っている。

例えば、仕事において、A地点からB地点まで、毎日1km移動するというようなミッションがあるとしよう。

 

成長しない人間というのは、そのタスクをひたすら歩いて移動する。

たかだか1km歩くだけだから、別に体力がつくわけでもなく、1年間歩き続けても、全く成長しない。

 

しかし、その1kmを、とことんまで追い込んでダッシュし続けたらどうなるか?

同じルートの様に見えても、最短距離を模索したらどうなるか?

 

一見1kmに見えているが、その中でもショートカットする道筋を探ったらどうなるか?

そもそも走らなくても済むようなイノベーションを考えたらどうなるか?

 

その試行錯誤を行った人間と、ただ歩いた人間とでは、取り返しがつかないほどの差がつくことだろう。

禅宗の言葉で、「只管打坐(しかんたざ)」というものがある。

 

ただひたすら座る、という意味だ。

禅宗では、身の回りの生活を自らの手で執り行い、一方でただひたすら座ることによって、真理を目指す。

 

逆に言えば、大変厳しい道のりではあるが、取り組み方次第では、ただ座ることでも真理に到達することができるということだ。

なので、目の前を通り過ぎる事象、耳に入るすべての音、心の移ろいといった、五感全てをフル活用し、その瞬間瞬間を真剣に学びの機会とする程の姿勢こそ、成長を期する人間には、求められているのでは無いかと思うのだ。

 

新しい期に臨むに辺り、すべての事象を「師」とし、全ての機会を成長への礎と捉える、そのくらいの気概で迎えたいと考えている。

まぁ、ご参考ということで。

 

 

 

 

今期一年ありがとうございました。

来週から新天地に臨む方も、引き続き同じ持ち場で頑張る方も、微妙に変化が訪れる方も、色々いらっしゃると思います。

小生も一年、読んでいただくみなさんのお役に立つような内容を心がけて参りましたが、お楽しみいただけたでしょうか。

 

しょうもない炬燵ブログですが、何かの足しにでもなれば、望外の喜びです。

ちょっと野暮用が続くので、とりあえずご挨拶です。

 

まぁ、ご参考ということで。

コミュニケーションはパズルである

決まったスペースに、様々な形や大きさのピースを埋めるパズルがあるとする。

そのパズルの特殊なところは、全部のピースは納まらず、必ず入らないものが発生するということと、隙間なくスペースを埋めるのではなく、大きなピース(=優先度の高いピース)から埋めていくというということ。

 

コミュニケーションとは、斯様なパズルではないかと思っている。

コミュニケーションは、プレゼンでも、面接でも、社内の情報共有でも、営業トークでも、Webページのデザインでも、IRでも一緒だ。

 

決まったスペースは、持ち時間だったり、相手の理解できるキャパシティだったり、飽きずに話を聞いてくれる限界値だったりする。

パズルのピースは、伝えたいテーマを構成するサブテーマだ。

 

サブテーマは、5W1Hに代表されるような、一通り網羅された情報の粒と、インパクトだったり重要度だったりの「重み付け」がされた、様々なカタチをしている。

それらのピース(=サブテーマ)を、スペースにあわせて、①重要度を付け、②スペースに入れるピースを選択し、③入れる順番を組み立てる、という流れではめ込んでいく。

 

例えば、いま考えている事業の提案をするとしよう。

持ち時間は何分か、プレゼンの相手は自分の考えているテーマに詳しいか詳しくないか、そもそも興味を持っているか、そのあたりが先ず「スペース」を決める。

 

そこに、何のピースを放り込むかなのだが、時間が限られていて、詳しくなく、興味もそれほどあるわけではない、というのが一番難易度が高い。

「とにかく簡単に言うとどんなビジネスなのか」という削ぎ落とした説明にせざるを得ないので、「誰に何を売るのか」レベルの最も基本的かつ大きいピースを一つ、それから「(相手は詳しく理解できないながらも)いかに魅力的な事業性なのか」というピースをもう一つ、このあたりは外せないだろう。

 

あとは、エレベーターピッチ的な状況であれば、「相手に何をしてほしいか」というピースで終わり。

締めて30秒というところだろう。

 

時間が長くなったとしたら、少なくともじっくり聞くつもりはある、ということなので、「削ぎ落とし」は程々に戻し、「何故やるのか」「顧客は誰か」「競合は何か」辺りのピースを追加してく。

とは言え、あくまでスペースに最適化して、ピースをデザインしていくのが基本だ。

 

何れにしても、大事なことは、どんなスペースなのかをよく見極めること。

そして、そのスペースに最適化されたピースを「選ぶ」ということ。

 

仕事の相当広い局面で活かせる考え方だと思う。

まぁ、ご参考ということで。

人事異動の季節ですね(今更)

今更だが、春は人事異動の季節。

小生の周りでも、大企業の方は異動のご案内をいただいたりしている。

 

小生も大企業勤めの時分は、異動の季節になるとソワソワしたものだ。

今の勤務状況に特段不満があるわけでは無いものの、新しい環境・新しい仕事に巡り会えるチャンスかも、と思って、「異動出ろ出ろ」と毎度念じていた。

 

他の同僚達の「ソワソワ」感も、小生同様に新しい環境を願うことから来るものだと、勝手に思っていたのだが、どうだろう?

皆が皆、新しい環境を望むわけではないのかなぁ、と思ったりして、違う心情の人たちも居るのだろうか…。

 

それはともかく、もし異動ということになれば、せっかくの機会なので、いろいろ見直したいものである。

それまでの仕事を振り返り、良くないところは改善し、良いところは伸ばす。

 

これを機会に、余計な仕事や役に立たないプロセス、思考回路は捨てる。

それも容赦無く捨てる。

 

捨ててスペースを空けなければ、新しいインプットは入ってこない、とばかりに捨てる。

経験上、新しい環境で良いスタートを切るためには、上手に「捨てる」ことがコツではないかと考えている。

 

特に、覚えめでたく、立場が上がった人なんかは、とても大事だろう。

役割そのものがガラリと変わるはずなので。

 

余談だが、神道由来の「禊(みそぎ)」という言葉は、おっさんの世界でも「仕切り直す」的なニュアンスで語られるのだが「身を削ぐ(そぐ)」というところから来ているのだそうだ。

世俗の垢を、修行で削ぎ落とすというのが「禊」の由来のようである(と、師匠から聞いた)。

 

というわけで、異動の季節、こびりついた垢を捨てて、新たな環境に臨まれるのがよろしいのでは?

まぁ、ご参考ということで。