人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

成長しない人間は自ら成長する機会を見過ごしている

「日々勉強です」「まだまだ修行が足りません」という様なことを仰る方々はよくいる。

大変謙虚で結構だと思うが、小生自身は表立って申し上げることはない。

 

その辺の言動に対して、一定の違和感を持っており、はっきり理由を申し上げられるわけではないが、なんとなく「そんなお気楽なコメントをしているうちは、まだまだ甘いんじゃないか」というような感覚を持っている。

例えば、仕事において、A地点からB地点まで、毎日1km移動するというようなミッションがあるとしよう。

 

成長しない人間というのは、そのタスクをひたすら歩いて移動する。

たかだか1km歩くだけだから、別に体力がつくわけでもなく、1年間歩き続けても、全く成長しない。

 

しかし、その1kmを、とことんまで追い込んでダッシュし続けたらどうなるか?

同じルートの様に見えても、最短距離を模索したらどうなるか?

 

一見1kmに見えているが、その中でもショートカットする道筋を探ったらどうなるか?

そもそも走らなくても済むようなイノベーションを考えたらどうなるか?

 

その試行錯誤を行った人間と、ただ歩いた人間とでは、取り返しがつかないほどの差がつくことだろう。

禅宗の言葉で、「只管打坐(しかんたざ)」というものがある。

 

ただひたすら座る、という意味だ。

禅宗では、身の回りの生活を自らの手で執り行い、一方でただひたすら座ることによって、真理を目指す。

 

逆に言えば、大変厳しい道のりではあるが、取り組み方次第では、ただ座ることでも真理に到達することができるということだ。

なので、目の前を通り過ぎる事象、耳に入るすべての音、心の移ろいといった、五感全てをフル活用し、その瞬間瞬間を真剣に学びの機会とする程の姿勢こそ、成長を期する人間には、求められているのでは無いかと思うのだ。

 

新しい期に臨むに辺り、すべての事象を「師」とし、全ての機会を成長への礎と捉える、そのくらいの気概で迎えたいと考えている。

まぁ、ご参考ということで。