人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

やるか、やらないか

新規事業というのは、不確実性へのチャレンジである。

当たり前だが、「やったことがない」から新規事業と言える。

 

昨今、お陰様でお仕事の引き合いが、市場空前に多くなっている。

ほぼ全ての日本の会社が、本業の劣化待った無し、だからだと思う。

 

こちらも最善を尽くして取り組むが、「やったことがない」ことの成功確率を高めるのは、自ずと限界がある。

せいぜい、「ギャンブル」を五分五分に引き上げるくらいだろう。

 

いや、五分五分というのも、言い過ぎかもしれない。

プロを名乗る以上、六対四くらいまでは最低限の目標としたいが、それはオーバートークというもの。

 

五分五分とは随分不確実な、と言われる向きはあるかもしれない。

しかし、それでもチャレンジするべきだと思う。

 

尊敬してやまない先達の言葉を借りれば、「新規事業は、成功は約束できないが、成長は約束できる」から。

仮に新規事業が成功しなかったとしても、それを通じて成長した人間が、組織の至る所に存在する、そのこと自体が企業の競争優位だと思わないだろうか?

 

真に新規事業が求められるこの時勢だからこそ、改めてその意義を問いたい。

頑張っても五分五分にしかならないのであれば、あえてチャレンジし、その経験を組織の力として取り込んでいく、「十年の計」に向き合うべきではないか。

 

すでに日本の組織は劣化が始まっている。

まだ投資できる余力がある今が、最後のチャンスだ。

 

目先の「儲かる、儲からない」ではなく、真の競争優位を築くべく、とことんチャレンジをしよう。

微力ながら、全身全霊を持ってお応えする所存である。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

対話を進める

社会人になってもう、結構な時間が経つのだが、昔から思っているのは、日本人というのは、本当にコミュニケーションが下手だなということ。

小生自身はもともと対人コミュニケーションに苦手意識があって、それをなんとか向き合って乗り越えてきた、という感覚がある。

 

苦労して身につけた立場からすると、未だに自信がないのだが、それ故に、普通の人を端で見ていて、そのコミュニケーションスタイルが気になるのである。

まず、愛想がない。

 

怒っているのか?と思ってしまうくらい愛想がない人が多い。

インド人もわりと笑わない方だと思うが、日本人の方が酷いのではないか。

 

それから、人の話を聞かない。

喋りっぱなしという人もいるが、相手の意見を受け止め、理解して、議論を発展させる、という意味において、人の話を聞ける人がとても少ない。

 

反対方向か、同一方向の意見をひたすら応酬するのではなく、角度を修正しながらも、双方の意見をベクトル合成のように結び、新たな視座を開くのである。

それができないのなら、そもそもコミュニケーションを取る意味がないと思う。

 

また、自らの役割を忘れて、素の個人として喋ってしまう人も多い。

組織長として、組織を推進する立場にあるはずなのに、「個人的意見」を連発して停滞させてしまう人は読者諸兄に心当たりがあるだろうし、会議でひたすら喋る人とか、引退後に現役時代の立場が忘れられない人も同じだ。

 

他にも、怒るとか、黙っていて後で反論するとか、色々あるけれど、何れにしても、対話相手の尊重と、対話を建設的に進めるための客観的な視点に乏しい人が多いような気がする。

出処が怪しい「ユダヤ商人10の教え」というのがあるのだが、その教えの一つに、「話す倍、聞け」というのがあろ。

 

個人的には、要するにこれではないかと思うのだ。

自分が話す倍、相手の話を聞くのが、尊重。

 

会話の量が偏ってないか、場をコントロールするのが、客観的な視点。

対話を進め、一人では辿り着けないところまで至るのが、コミュニケーションの本義を実現するアプローチとして、「話す倍、聞け」、いかがだろうか?

 

まぁ、ご参考ということで。

 

本日の更新はお休みします。

また明日再開します。

宜しくお願い致します。

好きなことを仕事にしてはいけないのか

今日はこんな記事があって、大いに共感するところである。

http://blog.livedoor.jp/tokyojohodo/archives/9586213.html

 

まとめて言えば、好きなことを仕事にするな、ではなくて、好きなことに逃げて判断を見誤ってはいけない、と言うべきであろう、というお話。

「好きなことを仕事にしてはいけない」という様な言説は、好きなことが無い人が「やっかみ」で言うものだと、個人的には思っている。

 

引用記事中にもあるのだが、本当に好きだったら、自分がどこまでの才能があるのか、食えるのかというのは自ずとわかるもの。

食うや食わずだったとしても、本当に好きなことなら、それをとやかくいうのは余計なお世話というもの。

 

小生は武術という好きなものがあるから、好きなことを仕事にして(周りがなんと言おうが)幸せになっている人というのは、なんとなくイメージがつくし、体現している人も知っている。

ちなみに、小生が武術を仕事にしていないのは、修行者として稽古を続けていくことと、お金を戴くこととは根本的に違うから。

 

もちろん、指導することに気付きがあり、仲間を増やすことで稽古を続けていくことができるので、もし弟子を取るようなことがあれば、それはそれで意味はあるが、小生の中では好きなことを続ける「手段」でしかないのだと思う。

あとは、ボランティアに近い形で、者かに対して意義を伝えていく活動とするか。

 

なので、自分の好きなことと、マネタイズが合致しているのであれば、どんどんやれば良い。

好きなことで人から感謝され、感謝の証としてお金を戴けるなんて、この上なく素晴らしいではないか。

 

好きなことが無い人は、模索しながらも、目の前の仕事を一生懸命やれば良い。

一生懸命取り組んだ仕事を好きになる、なんていうことは、キャリア論で古くから言い尽くされてきた話なんだし。

 

なんせ、人の人生に口出すヒマがあるんなら、ということである。

まぁ、ご参考ということで。

生き残れない営業がやっていること

この手のタイトルの記事が流れてくると、未だにドキドキして読んでしまう。

http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1706/14/news011.html

 

今更、「できる」「できない」を人から見極められるような歳でもないのだから、「ドキドキ」するのも滑稽な話だし、「お前は『営業』なのか?」と問われれば、そうとも言えるし、そうとも言えない面もあるのだが。

しかし、思いもよらない競合やテクノロジーの出現で、自分のスキルが陳腐化するリスクはみんなあると思うし、自分の知らないテクニックや方法論がまだまだあるかもしれないので、やっぱり読んでしまう。

 

ほら、上記リンク先にも、「自分を磨け」とあるではないか。

ちなみに個人的には、記事そのものに新しい知見や気付きはなかったが。

 

さらに言えば、個人のモチベーションやスタンスに依拠するニュアンスの様に読み取れて、あまり好きではない。

小生はへそ曲りなので、周りから「モチベーションを高く保て!」と言われても、却ってダダ下がりするのだ。

 

モチベーションについて言うと、今日はこんな記事もあって、こちらの考え方のほうがフィット感がある。

http://blog.tinect.jp/?p=40817

 

はっきり言って、やる気などはあてにならないので(自分も含めて)、適正なプロセスを、機械的にちゃんとやり抜くことが大事だと思う。

もちろん、適正なプロセスも、ちゃんとやり抜くのも、周到な設計が必要なので、そこに事業としての奥行き、秘伝があるのだと思うけれど。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

 

 

 

 

 

 

楽しい仕事をしよう

新規事業を考えるフレームの一つに、「Pain or Gain 」と俗に言われるものがある。

出典はおそらく、「バリュープロポジションデザイン」という本だと思うが、事業の価値を、"Pain reliever "と"Gain creator "とに分類するのだ。

 

リクルート出身者なんかはよく、「事業とは『不』の解消」と言ったりするけれど、それはどちらかというと、"Pain reliever "の考え方だと思う。

もちろん考え方として、鉄板で大正解だと思う。

 

とはいえ、社会がこれだけ豊かになってくると、解消されていない『不』を探し出してくるのも大変だし、そこをなんとか掘り返そうとすると、「生きる苦しさそのもの」みたいな、どんよりした重たい方向に振られてしまいがちになる。

もちろんそれはそれで、取り組むべきテーマではあるのだが、せっかく仕事をするのであれば、楽しく行きたいもの。

 

そこで、ガラリと考え方を変えて、"Gain creator "にアイデアを寄せていくのは、結構オススメしたい。

狙ったターゲットが苦しみから逃れる事業ではなく、より楽しい人生を送るための事業だ。

 

日本人はどうしても真面目なので、「不の解消」の方に寄ってしまうのだが、頭を切り替えて、ターゲットがより楽しくなる方にアイデアを振っていくと、ディスカッションの場がパッと明るくなるのを、何度も経験している。

企画している当事者も、その方がずっと楽しいしね。

 

"Gain creator "、是非アタマの片隅に置いていただければと。

自戒を込めて。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

社会の兵站が伸びる

前々から何となく懸念していて、さりとてそれに答えを持っているわけではない話なのだが。

社会が発展していくプロセスで、貧富の差が広がったり、リテラシーの格差が広がったり、興味のカテゴリーが拡散していったり、ということが、必然的に置きていくのではないかと思っている。

 

ここ10年位は特に顕著で、貧富の差はどちらかと言うと貧困層の拡大で広がっているし、リテラシーの方は、情報リテラシーとITリテラシーの分野で極端に開いているような気がする。

歳が10歳離れただけで、普段目にするメディアも、インターフェイスもぜんぜん違う。

 

過去の歴史(世界史レベルのスパン)を振り返ると、「爛熟」という表現もあるが、たいてい「爛熟」の次に来るのは、大きな社会変化だ。

その「爛熟」の状態を、小生のイメージでは「社会の兵站が伸びる」という風に捉えている。

 

兵站というのは、元々は戦時の後方支援全般を差すのだけれど、物資の補給が途絶えると戦闘は継続できないので、戦線の展開と兵站はセットで運用しなければならない。

しかし、戦線の拡大に兵站が追いつかなくなると、「伸びる」という状態になり、部隊は脆く崩れやすくなる(というか普通負ける)。

 

つまり、「社会の兵站が伸びた」状態というのは、色々なところに戦線が拡大し、社会全体が脆くなっている状態をイメージしている。

興味のカテゴリーが広がっているだけであれば、ある種ダイバーシティとして、ポジティブな働きも期待できるが、貧富の差やリテラシーの差は、社会的な断絶を生んでしまうことが多いだろう。

 

そうなると、耳障りの良い極端な主義主張が横行し、地滑り的な動きや、揺り戻しが、多く発生するのでは無いだろうか。

「既にそうなっている」とお考えの向きもあるだろうが、今後増々、大きな社会変化が訪れるのではないかと考えている。

 

まぁ、ご参考ということで。