こんな本を読む。
師匠が生前、何度か言及した「猫の妙術」。
もっと前から読んでおけよと自分にツッコミつつ、今更ながら読了。
江戸時代の武士が「談義本」という形式で武術の要諦を纏めたもの。
天狗芸術論は剣術の修行者がその道を天狗に問うもの、猫の妙術は鼠退治の達人である老猫に若い猫や家主が道を問うもの。
「天狗」の方が詳細で、本の順番もそうなっているが、「天狗」→「猫」の順で読んだ方が入ってきやすいと思う。
とはいうものの、本書は日本の武術修行に関わっている人でないと、あまり意味がないかと思う。
「気」「心」「水月」「無念無想」「残心」など
武芸の道で登場する「わかったようなわからない言葉」に対する問答が出てきて、「なるほど〜」と思いながら「やっぱりわかったようなわからないような…」となる本である(笑)。
巻末解説の内田樹氏も「そういうもの」とおっしゃっているが。
やっぱりそうかなと感じさせられるのは、正しい心を持てていないと、迷い・惑いが生じて技も乱れるというあたり。
正しさというのは、やましい所がないということでもあるし、執着がないということでもある。
何としてでも勝たねばならないと思えば乱れるというのは、多くのスポーツ経験者にも共感できるだろうし、それを言えば無念無想というのは差し詰め「フロー状態」というところか(命がかかっている場面で「フロー状態」に持っていくのは凄いことだけれど)。
この辺の「執着を持たない」といったあたり、日本武術が仏教と近い世界観に到達した証であるし、世界的に高く評価されてきたポイントでもある。
これが300年〜400年前に生まれた文化的豊かさ、今読んでも気が引き締まる本質的な内容は、これこそ「クールジャパン」なんだけどなと思う。
ねぇ、先生。
でも先生が生前問いかけられた「なぜ老猫でなければならなかったのか?」「『鼠は我が食なり』とはどういう意味か?」については、未だにぼんやりとしかわかりませぬ…。
不肖の弟子で申し訳ありません。
まぁ、ご参考ということで。