人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

守破離

物事の上達には、守破離のプロセスがある、というのは、多くの日本人であれば聞いたことがあるのではないだろうか。

一応、解説のリンクを置いておく。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/守破離

 

小生、武道を25年も取り組んでいて、当然その道に入った初期から守破離の概念は知っている。

で、技のレベル的には冷静に言って「離」に向かっていて良いと思うのだが、守破離がわかっているかといえば、この文章そのものだが、あんまりわかっていない。

 

武道というよりは、日本の武術と言うべきだろうけれど、基本的に稽古と言えば、型稽古である(文字変換で型稽古がちゃんと出ないことにイライラする(笑))。

で、ひたすらそれを守っていくということは、守破離の「守」としてよくわかる。

 

しかし、幾多の天才たちが文字通り命をかけて作り上げてきた型を、破るという「破」がわからない。

どう考えても凡人の工夫が、歴史を超えられるとは思えないのだ。

 

型が要求する動きを「守る」事ですら困難なのに。

そう、ふと考えるのは、ただ見よう見まねの「守」の状態から、型の本質的価値を理解して、守りたくても守れない試行錯誤の状態を、「守れていない」という意味で、「破」というのかもしれない。

 

先人たちの叡智に近づこうという努力は、本質的価値を理解し、努力を続けている限りにおいては、その人に恵みをもたらすが、しかし残念ながら、永遠に「守」は達成されない。

「守」から入り、「守」を目指すものの、終ぞその本質には辿り着けない、つまり本質からは「離」れた状態にあることを、「離」と呼ぶ。

 

そういうことなら、個人的な実感とはフィットするし、武芸の道が求道の道になぞらえられるのも理解できるのである。

単純なステップ論で語れるほど、世の中簡単ではないと思う今日この頃である。

 

まぁ、ご参考ということで。