人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

強くなることの不可能性

ブラジリアン柔術業界では、既存の競技ルールにとらわれない試みをする人たちが少数ながら存在する。

多分グレイシー一族が初期のUFCに登場した衝撃が忘れられない世代なんじゃないかと思うんだが、なんでもありでも柔術は強いんだ、という検証をしたいのかもしれない。

 

昨日、そういう変形ルールの一つ、グラウンドでの掌底による打撃あり、という試合の動画を見たのだが、なかなかに考えさせられたのである。

たかが掌底があるというだけで、いわゆるブラジリアン柔術の試合とはかけ離れた展開になるんだよね。

 

頭ではわかっていたけど、試合を見ると価値観が揺さぶられるのがわかる。

好きな先生が出ておられたのだが、普段の柔術の試合で披露される技術の「さわり」くらいしか使えない。

 

打撃があると、上体を離すか抱きつくかしかないので、その中間に含まれるテクニックがほぼ使えない感じである。

古代ローマパンクラチオンを中途半端なボクシングと中途半端なレスリングの融合と酷評したのはソクラテスだったか。

 

それぞれの格闘技のほんの一部しか使えない。

実践とは結局そういうものだとしたら、結局はフィジカルの強さがモノを言うことになる。

 

それでもなんとかしなければならないとなると、機転・知略・謀略を駆使していくことになり、その先は「戦わずして勝つ」の世界となる。

結局、世界の兵法家がたどり着いたことはこういうことなのかと、何周目か何十周目かの結論に至るのであった…。

 

だから修行することに意味はない、とは思わないのだが、それは何故なのか。

なんとなくわかっているのだけれど、腹落ちまではあと一息という感じ。

 

まぁ、ご参考ということで。