古流柔術の研究なんかしていると、「え、こんなのマジでやるの?」というようなエグい技が出てきたりする。
「死ぬじゃん」ってまぁ殺すための技術体系なんだから当たり前なんだけれど、現代社会では覚えたって使うタイミングがないし、戦国時代だって実際に使えるのは限られた立場の人が限られたシチュエーションで、だったんじゃないかと思う。
そんなの人前で練習してたら頭おかしいんじゃないの、と思われるから、山籠りとかこっそり練習したんだ、と昔師匠が説明してくれたことを思い出す。
で、合気道は「和の武道」なんていうコンセプトで語られたりするんだけれど、こういう殺伐とした古流柔術のアンチテーゼとして元々は語られたんじゃないか、という仮説を考えたりする。
現在では「調和」とか「和合」とか「争わない」とか、独立した理念として「和の武道」と語られるのだけど、もともとは日本の近代化に合わせて、「あぁいう殺伐とした殺し合いの練習みたいなのは、もういいんじゃないの」というところから始まったんじゃなかろうか。
そして戦後、平和を求める大衆に、もう争い事はやめようや、争わない武道、「和の武道」だよね、と広く受け入れられていったのでは、と想像する。
ま、だからなんだ、って話なんだが、殺人術としての古流柔術と、現代武道としての合気道という関係性を理解した方が、「和の武道」の本質に近づけるのでは、と思っただけなんだけど。
余談だが、昔から合気道で練習していることと、いわゆる「護身術」と言われる体系の違いってなんだろうとずっと考えてきたのだが、「護身術」の対立概念として古流柔術も含めた「殺人術」を置くと、護身術のコンセプトが明確になる。
古流柔術と現代武道の合気道、殺人術としての古流柔術と護身術、という対立構造を眺めてみると、合気道と護身術の近接関係がなんとなく見えてくる気がするのである。
護身術、楽しいので極めたいね。
まぁ、ご参考ということで。