テーマ続きで積読在庫のこんな本を読む。
「障害を考える」という意味では、先日取り上げた「目の見えない人は世界をどう見ているのか」よりも重たい内容とトーンの本。
あの痛ましい相模原の事件を入り口に、著者と障害者との関わりや、障害者を巡る社会運動の歴史などを採り上げながら、タイトルとなったテーマに近づこうとしていく。
なるほど、と学んだのは、「障害」と表記するか「障がい」と表記するか、もちろんその他の表記でも良いのだけれど、その表し方を巡る問題。
これについては「目の見えない人は〜」にも記載があったのだが、現在の考え方は、障害とは個人にあるのではなく社会の方にある、とするそうだ。
つまり「障害」とは「バリア」として存在するし、だから「バリアフリー」であるべき、ということなんだね。
障害者団体としては、故に「障害は『害』じゃないんだとして『がい』と表記することは、現実に存在するバリアを有耶無耶にしかねないため、あくまでも障害は漢字で表記する」と一貫して主張しているらしい。
なるほどそういうことか。
さて、本書では、ある障害者の言葉を終章で引用する。
「富士山は所詮土の塊でしかないのに、姿を見てありがたい気持ちになったりするのは、見る側に価値を見出す心の働きがあるから。障害者を社会全体で支えることに意味があるのかと問う人間は、価値を見出すことをしようとしていないだけである」と。
何不自由なく暮らしていても、ある時障害を抱えることになる可能性は誰にでもある。
いや、自覚がないだけで、既に何かの障害があるのかもしれないし。
生きていくことは、価値を見出すこと、見出し続けることかもしれないな、と思ったりする。
まぁ、ご参考ということで。