人間到る処青山あり

諸々よもやま話(とりあえず)

鎖国が生む国際性?

ちょいとくたびれ気味なので、娯楽を求めて高野さん(さん付け(笑))の本を読む。

 

高野さんの本の良いところは、バカバカしい旅行記・異文化体験でありながら、「ほー」「なるほど」と思わせる本質的な要素が含まれていること。

このまま着々とコンプリートしそうだが、ファンかと言われれば、なんか違う気がする(苦笑)。

 

面白いから読んでいるだけだし、読み続けているうちに著者のことをあまりに身近に感じてしまうので、もはや昔からの知り合い、散々飲み屋で武勇伝を聞かせてもらった先輩のような感覚なのである。

それはともかく。

 

本書は2000年代初頭に早稲田大学探検部の先輩である船戸与一氏とミャンマー取材旅行に訪れた際の紀行文。

高野さんなので当然のように珍道中なのだけれど、独裁政権下のミャンマーでは、外国からの取材者には当然監視がつく。

 

いや、政府経営の旅行会社の手配で専属運転手やガイドがつき、そして運転手の知り合いという謎の男もつく。

そう、全員政府情報機関の人間である。

 

そこからハリウッド映画のような緊迫した展開になるかと思いきや、全くならないのがアジア(笑)。

そんなお国柄を、江戸時代の日本になぞらえ、彼ら情報機関を柳生一族とたとえ、高野さんはわかりやすく解説してくれる。

 

ちょっと前の本だが、その後に彼の国で起きたことにつながる知識も得られる。

それだけでも「へー」なのだが、高野さんは旅の間、こんな鎖国状態の国なのに、どうしてミャンマーの人たちは外国人とのコミュニケーションが上手いのだろうと疑問に思う。

 

この旅に限らず、いろいろなところで出会ったミャンマー人は、他の開かれたアジアの国の人より間違いなく社交的で、それはなぜなのか、と。

答えを言ってしまうと、それはミャンマーの多民族・多宗教による多様性ではないか、との仮説。

 

そして江戸時代の日本も同じ多様性を保っていたから、開国とともにヨーイドンで世界に羽ばたけたのではないか、という思考に発展する。

「うーん、なるほど」それはあったかも。

 

むしろ今の日本の方が多様性は少ないかも…みたいなことを考える。

毎度の通り、唸らされるのであった。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

一生懸命だから面白い

娘が学校のイベントで、人前で何かやるらしい。

といっても校内放送の企画で、一分間にペットボトルの蓋を何個積めるかというチャレンジに上級生と参加するだけなのだが、それなりに緊張しているらしい。

 

わりとどうでもいいことで緊張するんだなと感心半分、呆れ半分で聞いている。

こちとら枯れ切った中年なので、余計なアドバイスをする。

 

そんなもん、一生懸命やるからみんな見てくれるし、思い切りやって派手に崩れたりするから絵的に面白いんだ。

だから気にせずガンガンやれ。

 

そう言って、YouTubeで90年代のプロ野球珍プレー好プレー集(みのもんた実況のアレである)を見せる。

ほら、すごく面白いけど、これって一生懸命やっているから面白いんだし、かといって笑いものにしてるんじゃないんだぜ、一生懸命プレーする選手への愛情があるから面白いんだ、と。

 

娘がわかったのか、わかっていないのか定かではないが、YouTubeを一瞥して半笑いした後、ペットボトルチャレンジの練習に戻っていった。

親としては、とにかくなんでもいいので色々経験すれば良いと思う。

 

一生懸命やれば、何か道は開けるはず。

もちろん、正しい努力でなければ道は開けないが、その辺はもう少しサポートしようと思っている。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

子育ての終わり

娘も来月で10歳。

女の子は育ちが早いと思っていたし、諸先輩方のお話を聞くに、いわゆる「子育て」らしい「子育て」は10年だろうと予測。

 

その間できる限りのことをしようと決めて、子育てを始めてもう10年。

やっと10年、という気もするが、それはまぁそれなりに苦労したからなんだろう。

 

最近娘を見ていても、まだ全然子供ではあるが、できることも圧倒的に増えたし、自己主張もあって親との喧嘩も絶えなくなったあたりに、違うステージに入ったなと実感する。

子供が終わり、大人の手前に来たというところだろうか。

 

アメリカの家族もののドラマなんかでよく扱われる「ティーンエージャー」の子供との向き合い方、みたいな状況だ。

さてさて、どうしたものかなと夫婦で話し合う今日この頃。

 

ちょいと遅いかなと思いつつ、こんな本を読む。

 

いわゆる「エビデンスベース」で子育ての悩みに応える本。

医学的にある程度正しさが証明されている知見がたくさん載っているので、これから子供を迎えよう、今まさに乳児の子育てに悩んでいる、という人にちょうど良いと思う。

 

個人的には「あぁ、子育てでこんなことに悩んだ時期があったなぁ」という印象。

つまり、やっぱり読むのが遅かった、というところ。

 

つらつら思うに、娘が赤ちゃんだったことを楽しく振り返るなんていうのは、いよいよ子育ては終わり、ティーンエージャーが大人になるのを見守る時期に入ったのだなと。

見た感じは全くもって子供なんだけどねぇ。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

ピークをどこに持っていくか

中年の悪あがきでトレーニングを続けている。

毎朝1時間のトレーニングとジムや合気道の稽古その他というのは、どうだろう、学生時代の部活でもそこまでやっていなかったような気がするし(ダメ野郎でした)、少なくとも身体が出来上がってからでは一番ハードなのではなかろうか。

 

やったるで!と思ったのは、マイク・タイソンがエクシビジョンマッチのためにトレーニングしている、54歳のミット打ち動画を見たからだが、

https://youtu.be/Q0Qmf6huxxM

まぁ、ボチボチ、だらだら動き続けてきたから、そんなやる気にもなったのだろう。

通っているジムのトレーナーも言っていたが、中年の方が根性があるらしい。

 

確かにそんな気がしている。

自分の得手不得手は理解しているし、辛い思いもたくさんしてきたから(笑)ちょっとやそっとではヘコタレないし、上達の方法論も理解している。

 

オジサンはオジサンの良さがあって、44歳の今が一番強い、という人生があっても良いと思う。

いや、55歳でも66歳でも、ピークを押し上げることは出来るはずだ。

 

そんな風に、楽しんで努力する人生が一番豊かで、楽しく、美しいんだと思う。

話は変わるが、娘の習い事でも、その辺りは気をつけている。

 

コンクールで勝利したり、大会で勝ったり、プロになることばかりが全てではない。

ピアノだったら本人が一生楽しんで弾き続けることこそがピアニストだと思うし、なんだったら死ぬ間際が一番上手い、といった人生であれば、習い事をさせた甲斐があったというもの。

 

「Born to run」にも、15歳からランニングの能力がピークに向かい、また落ちて15歳のレベルに戻るのは60代、みたいな記述もあった。

それが本当かどうかわからないが、ピークはまだまだ上にある。

 

そう信じて、悪あがきを続ける人生でありたいものである。

まぁ、ご参考ということで。

誰のためのスポーツ

こんな本を読む。

 

Kindle日替りセールに登場し、レビューが猛烈高評価だったので購入。

子育てには一応真剣なつもりだしね。

 

サッカーを愛し、世界中でプレーし、現在サッカースクールを運営する著者による、サッカーを通じた子供の育成に対する考え方を述べた本。

育成に繋がらない従来の日本のスポーツ指導に対する強烈な批判ともなっている。

 

親として耳が痛い提言ばかりだし、「いや、仰る通り」という日本スポーツ指導の悪癖と、それに対する著者の取り組みに感心したりと、ちょっと感想がまとまらない。

大会は年に一度のトーナメント戦→絶対に負けられない→勝利至上主義→出来る子たちにしか試合に出る機会がない→その他大勢の子たちは楽しくない→嫌いになってしまう&裾野が広がらない、という悪循環。

 

「サッカーはサッカーを通じてでしか上手くならない」とヨーロッパでは言うらしく、リフティングやドリブルの上手さを競うような練習はしないらしい。

もちろんテクニックは大事だけれど、サッカーは認知→判断→行動を連続させるスポーツだから、認知と判断が間違っていれば、テクニックは役に立たない。

 

認知と判断を養うのは、試合を通じてPDCAを回していくことでしか身に付かない、そういうことなんだろう。

しかし、小学校の時のサッカー部は、リフティングの回数でレギュラーを決めていたなぁ…。

 

戦後70年をかけて、ずいぶん曲がったルートでスポーツ指導が進んできたように思うけれど、今こうして異議を唱える指導者が世に出て、それに育てられた子供たちが指導者となり、疑うことなく育った三世代目あたりで、やっとヨーロッパに肩を並べられる日が来るのかもしれない。

 

イギリスの諺「犬の躾は三代かかる」というのを思い出す。

つくづく、子供には幸せになってほしいなぁと。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

 

 

 

 

正しくあれ

こんな本を読む。

 

師匠が生前、何度か言及した「猫の妙術」。

もっと前から読んでおけよと自分にツッコミつつ、今更ながら読了。

 

江戸時代の武士が「談義本」という形式で武術の要諦を纏めたもの。

天狗芸術論は剣術の修行者がその道を天狗に問うもの、猫の妙術は鼠退治の達人である老猫に若い猫や家主が道を問うもの。

 

「天狗」の方が詳細で、本の順番もそうなっているが、「天狗」→「猫」の順で読んだ方が入ってきやすいと思う。

とはいうものの、本書は日本の武術修行に関わっている人でないと、あまり意味がないかと思う。

 

「気」「心」「水月」「無念無想」「残心」など

武芸の道で登場する「わかったようなわからない言葉」に対する問答が出てきて、「なるほど〜」と思いながら「やっぱりわかったようなわからないような…」となる本である(笑)。

巻末解説の内田樹氏も「そういうもの」とおっしゃっているが。

 

やっぱりそうかなと感じさせられるのは、正しい心を持てていないと、迷い・惑いが生じて技も乱れるというあたり。

正しさというのは、やましい所がないということでもあるし、執着がないということでもある。

 

何としてでも勝たねばならないと思えば乱れるというのは、多くのスポーツ経験者にも共感できるだろうし、それを言えば無念無想というのは差し詰め「フロー状態」というところか(命がかかっている場面で「フロー状態」に持っていくのは凄いことだけれど)。

この辺の「執着を持たない」といったあたり、日本武術が仏教と近い世界観に到達した証であるし、世界的に高く評価されてきたポイントでもある。

 

これが300年〜400年前に生まれた文化的豊かさ、今読んでも気が引き締まる本質的な内容は、これこそ「クールジャパン」なんだけどなと思う。

ねぇ、先生。

 

でも先生が生前問いかけられた「なぜ老猫でなければならなかったのか?」「『鼠は我が食なり』とはどういう意味か?」については、未だにぼんやりとしかわかりませぬ…。

不肖の弟子で申し訳ありません。

 

まぁ、ご参考ということで。

 

 

高級文房具

私の尊敬するクライアントの方が、使いこなせる程の組織や事業でも無いのに、高学歴の人材や戦略コンサルタント出身者を雇って本社のスタッフとする行為を「高級文房具」と評していた。

これは本当に言い得て妙。

 

モンブランの万年筆だからといって字が綺麗になるわけでもなければ、名文が書けるようになるわけでもない。

フリクションより不便だし、ジェットストリームより滑らかではないし、メンテナンスコストもランニングコストも高い。

 

小生もそういう買い物はするので否定はしないが、あくまで見栄と自己満足のためのもの。

採用する側も採用される側もお互いわかって合意しているのなら良いが、そういうことはほぼないので、大抵の「高級文房具」は短命に終わることが多い。

 

昔、その業界ごと立ち上げた、と評しても過言ではない創業オーナーとお話しした時のこと。

「経営企画」という話になって、そのオーナーは仰った。

 

「売上で数百億の規模までだったら、創業オーナーが誰よりも詳しいんだから、そんなヤツは要らない」

これもまた名言、その通りだと思う。

 

事業を作ってやり続けた人間が、先の見通しについて最も明るいのは当たり前。

一つの業界にドップリだから、もちろん見えていないこと、知らないことはたくさんあるけれど、その自覚さえ有れば何の問題もないと思う。

 

勉強ができて色んな業界を見てきただけのコンサルタント出身者を手元に置いたって、オーナーの筆圧ですぐにペン先が折れるだけ。

高級文房具はもっと後、事業にやる気がなくなってからにしてください。

 

まぁ、ご参考ということで。